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サン=テグジュペリの言葉によせて


天気の良い日の屋上で。通勤途中の交差点で。学校からの帰り道で。
誰もが一度くらいは頭上を仰いで思ったことがあるのではないでしょうか。

「この大空を自由に飛べたらいいのに」

私もその一人です。

この思いは何も現代の私たちに限ったものではありません。

遡れば、はるか昔の記録にも飛ぶことへの願望が残されています。

数千年以上前に記された碑文にある「鳥のように飛べたらいいのに」という一文や、有名なギリシア神話にもあるイカロス物語がそうです。

このように私たちは、時代は違えども空への想いを持ち続けていました。

では、私たちが抱くこの空への憧れはどこから来るのでしょう。

その生涯を飛ぶことに捧げ、空を愛し続けたサン=テグジュペリの言葉に、そのヒントがあるような気がします。

空を飛ぶことで、くだらないことの束縛から精神が解放される

ここから見て取れるように彼は空に自由を求めていました。
というのも、誰もが知る名作やパイロットとしての輝かしい経歴がある一方で、彼の私生活はスキャンダルにあふれたものだったからです。
それは、名家であった自宅の取り潰しや人間関係のもつれ、重なった借金など・・・。挙げればキリがありません。

そんな多くのわずらわしさから離れることができたのが空の上でした。
彼にとって地上は様々なことに「束縛」される場所だったのでしょう。

思えばこれは、多かれ少なかれ現代の私たちにも当てはまるものだと感じます。先だって、それを感じさせる広告を見かけました。

世間が、そして私自身が作った幻想。だれかの”そうあるべき”が重なって、私が私の鎖になりそうになる。縛るな。縛られるな。

これは某女性用化粧品のCMからの抜粋ですが、まさしくサン=テグジュペリの言うところの束縛を言い表しているように思います。

日々の仕事や私生活の中で、どこか〇〇しなければ、〇〇すべきだという価値観に押しつぶされそうになる。

それはさながら、心にズシリとのしかかってくる重力のような束縛ではないでしょうか。

そういった、世間であったり私たち自身によって生み出されてしまった束縛に疲れた時、頭上に果てしなく広がる空に自由や解放といった思いを投影する。

それが私たちの抱く空への憧れの一因にあると思うのです。

では、そんな空を飛び続けたサン=テグジュペリは、わずらわしい地上からただ逃避するためだけに空を飛んだのでしょうか。
彼は著作の中で次のように語っています。

これはすでに幾度も言ったことだが、僕にあっては、飛行機は目的ではなくて手段だ。自分を創り上げる手段だ。農夫が鋤を用いて田畑を耕すように、僕は飛行機を用いて自分を耕すのだ

この言葉からわかるように、彼は空をただ地上からの逃避の場とは捉えていませんでした。

むしろ、飛行機を使って空を飛ぶ中で自分自身を耕し、開墾していく。

その中で気付いた、地上に暮らす私たち自身の精神性や自らの内にある愛について深く考察したからこそ、彼の作品は世界中で愛される名作になったのだと思います。

彼にとって飛ぶことは、深く自分のあり方を知るという実践だったのかもしれません。


2018.1.28 覚書より


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