無音

「黙っていても日々は続く レコードが無音で回るみたいに かっこわるくないよ 電源を切らずにいられれば」
(住野よる「無音が聴こえる」)

365日もあれば一年のうちの大部分の日が、前進もなく後退もない、平凡な現状維持の日であるように私個人は感じる。そして、その現状維持の時間は、のんびりと幸福感に包まれて送れるものの時もあれば、苦しく耐え忍ばなければならない時もあるように思う。しかし、どんな時でも、私が命の灯火を消さずにいることができれば人生は未来に向かって続いていく、そのような希望をこの詩は教えてくれるように思う。

充実した小学校3年生が終わり(前回分)、新たな4年生というクラスが始まると、私は一気に地獄の世界に突き落とされた。新しく担任になった先生が、給食を残したり、自分の分量を減らしたりすることに厳しい方で、少食の私は給食にトラウマのようなものを抱くようになった。そして、そのトラウマの対象がクラス全体、学校全体に拡がってしまい、登校しようとするとめまいや吐き気を引き起こしてしまうようになった。学校は行かねばならぬ所と認識していたし、矛盾するようだが学校のことがずっと好きだったので、登校拒否を示す自分のことが自分で嫌になった。小学校3年生の時が皆勤賞で勉強の成績もよく、遊びも充実していたので、それと比較をしても学校に行くことすらできない自分が嫌になった。

「私は世界市民だ」
これは、古代ギリシアの哲学者ディオゲネスが遺したとされる言葉だ。ディオゲネスは、世間の習慣などにとらわれない者で、国家や国境などという概念も人間が勝手に定めたものであり、神が定めた運命のようなものに比べれば取るに足らないものだと考えた。そして、目の前の富や名声に気をとられてはいけないという考えをもっていたといわれている。

学校に行けるかどうかということは、当事者にとっては言うまでもなく死活問題だ。しかし、学校に行けなかったとしても毎日はやってくるし、人生は未来へとつながっていく。人間にはどうしようもないことが世界にはあり、自然に身を委ねることが大切な時もある。当時は苦しむしかなかったのだが、今となっては少し記憶が美化されてきたようにも思うのだ。



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