〇〇でも、ではなく〇〇が。
ときに、〇〇でもやりたい。という発言を聞くと、なんだか無性にイラッとする。イラッと、というより幻滅という感情の方が近いのかも知れない。
あるいは、なんて傲慢なんだろうと。
あくまで個人的見解としてみていただければ。
〇〇でも、という発言には発言者よりも〇〇というモノ・こと・サービスなんかは、
・程度の低い、
もしくは
・大した労力もかけずに、
それに、
・誰でもできる、
という意図が込められていると感じる。
もちろん、そういったケースもあるかも知れない。
その人がとても優秀であって、〇〇はいとも簡単にできるのかも知れない。
しかし、たとえそうであったとしても、現在〇〇を必死で真正面から向き合って提供している側からすると、決して気持ちの良い内容ではないだろう。
個人が心の中で何を思おうが自由だ。
それは守られた権利である。
だがしかし、一度、口から出た言霊に対しては、少なくとも責任と覚悟を持つ必要がある。
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