多様性がもたらす寛容

森本あんり著、『不寛容論』(2020)を読んでいます。

日本は多神教だから寛容という言説は、正しくない。実際には、異なる宗教との接触が少なくよく知らない。または無関心。無関心なものに対しては寛容にも不寛容にもなりようがなく、いうなれば無寛容の状態。無寛容は何かがあれば簡単に不寛容に転じる。

寛容は、多様性によってもたらせる。
「人は未知のものには不寛容に、既知のものには寛容になりやすい」(p.7)
自分の周りにどれだけ多様なサンプルがあるかどうか。

そういう意味では、人と違っていることを、隠さないでオープンにしていける環境がまず大前提なのだと思う。例えば昔からセクシュアルマイノリティはいたのに、それを隠さなければいけない社会だったから結果的に周りに「いないもの」とされてしまっていた。

自分の例で言うと、私はクリスチャンなのだけど、あえてそれを人に言わないで生きてきた。宗教に対して偏見を持っている人もいるし、好奇の目で見られたり面白おかしくネタにされるのもめんどくさいなと思って。でも最近会社にイスラム教の人が入ってきて、宗教についてオープンに当たり前に話しているのを見て、私もオープンにしてもいいかなって思うようになった。宗教について口にしないのが当然すぎて自覚もしていなかったのだけど、彼と話しているうちに、あぁ私「宗教を持っている人」というマイノリティだったんだ・・と気づき、同時に理解者ができたことが嬉しかった。イスラム教かキリスト教かは全く関係がない。

私がオープンにしてもいいかなって思ったのは、宗教を信じている人が身近にいれば、その人の中に「宗教を持っている人」というサンプルが増えるから。不愉快なことを言ってくる人もたまにはいるかもしれないけど、そういう人もいるんだなって思ってくれる人が増えて、社会の土壌が豊かになればそれがいいなって。

「普通」じゃないからって人に言えないこと。無理に言う必要は全然ないし、自分を守ることを一番に考えてほしい。でも、いつか言ってみてもいいかなって思える日がきたら、私たちがどんなに多様で素敵かというサンプルに、一緒になりませんか。


参考:森本あんり(2020). 不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学. 

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