20240926 読書会
今日は月に一度の京都での読書会。
月末に決まって動画編集の仕事が入るので、いつもこの時期は忙しいけれど、それでも遠く京都まで行くのにははっきりと理由があって、読書会でしか得られない体験があるから。
本はひとりで読むもの。それゆえに、わたしひとりの視点を逃れられない。もちろん、その世界に浸かることはいいことだけれど、思わぬ盲点があったり、知らない知識があるものだ。
読書会でみんな同じ本を読んで語り合うことで、新しい視点、発見に気づくことができる。今まで好きになれなかったような本も、急に理解が深まって、興味を持ったりする。それが嬉しいのだ。
ひとりで読むのもいいけれど、読書会も一つの読書の真髄だと思う。
嬉しいことに仕事が昨日ですっきり終わったので、寄り道をしていくことにした。
梅田でパフェを食べて、阪急京都線で水無瀬駅へ。長谷川書店。以前から行きたかった本屋さんだ。降り立つと、水無瀬駅は普通のよくある街の駅だった。改札を出ると長谷川書店は目の前にあってすぐにわかった。
外から見ると、駅の建物の中にある、よくある街の本屋さん。けれど中に入ったら本の宇宙だった。なかなか、抜け出せない。一つの本棚の前で時間が経つときの、わくわくする気持ち。本が好きだと思う瞬間。背表紙をたどる。手に取りたい本がいくつも現れる。そのひとつひとつを、そっと開いてみる。開いてすぐに閉じるのは、なんだか作者に申し訳ない気がして、しばらくは読む。けれどわたしは斜め読みができないので、じっくりと腰を据えて読まないとあんまり理解ができない。そんな中でもピンとくる本がある。それが本との出会いだと思う。
今日は本を買うつもりはなかったのに、2冊買ってしまった。1冊は、ヘルマン・ヘッセの「人は成熟するにつれて若くなる」、もう1冊はひとり出版社「夏葉社」を営む島田潤一郎さんの「本屋さんしか行きたいとこがない」。
レジに持って行ったら、店主さんはとても穏やかそうな方で(わたしは本を通してこの方の名前も知っている)、この人も宇宙だと思った。瞳がまるくて大きくて優しそうだった。
よくある本屋の姿をした、穏やかな宇宙を後にして、京都駅へ。
今日の読書会のテーマは、わたしの書いた「冬の花」というショートショート小説だ。わたしの作品を扱っていただくのは初めてで、少し緊張しつつ楽しみにしている。
読んでもらえる限り、どんな読まれ方をしても構わない。褒められても貶されても、それはわたしの問題ではない、という気持ちがどこかにあるからかもしれない。その人は、そのように読んだという事実があるだけ。わたしの作品の評価は、わたしが決める。けれど文章的な誤植などを指摘いただけると、とてもありがたい。
わたしはそれが傲慢なことではなく、普通のことだと思っている。そもそも文学作品は簡単に理解できるものではない。わかった気にはなれたとしても。それはわたしが読者の場合も同じだ。作者も読者も、謙虚さは一番役に立つ。謙虚でいるから書くことができ、謙虚でいるから読むことができる、ような気がする。
耳を澄ますことは難しい。
語らなくていいんだ。
権利ばかり主張するのではなく、そこに「居る」ことが大切なように。
そろそろ読書会へ向かう。