ケアパフォーマー宣言_続編1
日本ほど社会的入院が多い国はないそう。
これは、一体どういった状況なんだろー。
今月から地域の精神医療に長年取り組む病棟で作業療法士さん等と経験を積めることとなった。その病棟には、社会的入院と言われ治療が必要出なくなったにもかかわらず入院している人々が300名いらっしゃる。
この数字を果たして大きいと捉えるか、少ないと捉えるかは、人それぞれだと思うけれど、ワタシはこの数字をきいて脅威を覚えた。率直にいって、まず、病院は、余り何時迄もいたくはない場所であり、出来ればお世話にならなくて住むならば…と考えるから。けれど、そこには、多数の、しかも平均年齢65才方々が長期入院すると言う。
はて。いたくてそこにいるのか、退っ引きならない背景があるのか…。わたしは、比較的、幼少期から精神病とともにある大人らを身近に感じながら育った。いつもの優しいお兄ちゃんが人が変わった様に叫ぶ姿や、壁にづつきを加え流血する姿、村の祭で我を忘れたかの様に踊り狂うお隣さんをみては、何が人をそうさせるのか、不思議だった。
不思議だなー、と思うと同時にこの時期を堺に人体って誰のモノなんだろー。あの人は、ワタシの知ってるあの人であって、どんな環境が、要因が人を変容させるトリガーになりえるのか、考えるようになった。これまでに荒れ狂う姿をなぜか恐怖に感じることはなく、その姿は、どこか美しくしごく大胆で奥の奥にある深部のナニモノかにふれている様にもみてとれた。と、同時に制御不能な突発的な波に乗るでもソルでもなく人体に身を任せるしかない己の身体に戸惑い体の主導権を各々の叡智から握り締めようと揺らぎ続けるその体に生命の生きることに対する貪欲さみたいなモノをみた。人体と身体の主導権合戦は、なんだか滑稽にもみえる。身体と人体の狭間に揺れる人の行動や感情が、わたしはどうしてもえらく斬新で、愛おしくてたまらない。
そこにある身体が個人の記憶やら体験からはみでて、身体が、宇宙の生命体であるエネルギーに翻弄される人体となる。この境界線はどこか…理解したくて気づいたら身体表現の道に入っていた。いま、辿り着いた答えは、人体の表現文化には、ワタシもアイツもない。身体の表現文化には、感情やらアイデンティティを主張する癖があり、あいかわらず身体を自分のものとして支配しようとする人間の思考がある。
しかしながら、人体か、身体の枠をこえて、空っぽの生命体を時にあっけらかんと、そこにほーりだしてみると、何のことはない、我が身体は、自然界の受容体:レセプターとなり、単に呼吸し、循環する肉片となる。
果たして、精神医療を現代人は、今ある叡智でどんな風に捉え扱うか、観察し、向き合ってみよう、と思う。
吹き荒れたらいい、どこに居ても。
人体に吹き荒れる命の風をさらりと躍りこなすレセプターとなりたい。身体よ、全てをもって地球の循環を担う尊い存在であれ!、と願う。
Recorder!!!!
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◉精神医療とアートプラクティス事例
◉社会的入院って何?
https://gakkai.sfc.keio.ac.jp/journal/.assets/SFCJ8-2-12.pdf
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