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親は子より偉いわけではない

おはようございます。

社会福祉士×ダウン症児パパのTadaです。
Tadaのイントネーションはパパと一緒です。


小噺です

ピンチはチャンス。

最近ちょいと偉い人から目をつけられている。

と言っても僕自身のことではなくて
僕が担当している仕事について。

詰められることもあるかもだけど
上手く賛同を得て突破できれば、注目案件としてスターダムに躍り出る可能性だってなくはない。

福祉にはお金がつきにくい。
だから「どうかこれはピンチでなくチャンスであってくれ」と心から祈りながら対応するんだ。


さて本題

昨日のホリエモンのVoicy、タイトルに惹かれて聞いた。

ちょっと言葉が強すぎて

「皆さん聞いてみてください」

とは言えないのでリンクを貼るのはやめておく。

とはいえタイトルだけで考えさせられるものがあったのは事実。

そのタイトルは

大したことない親のくせに子どもにマウントとるのやめなよ

だ。

タイトルもなかなかパンチ効いてるけど
放送本編はもっとパンチ効いてた。

でも一理ある。特にタイトルに関しては。

まぁ、資本主義社会である現代にとって

育てる=お金を払う

ということでは確実にあるので、そういった点では“親は子より偉い”という理論も成り立つことは成り立つ。

ただ、気をつけるべきは

親は全てにおいて子の上であるわけではない

ということ。

多くの子育ては、子を産んだ女性が、パートナーである男性と共に行う。

最近は選択肢が増えてきたからもちろんこれが全てではない。僕はその全てを否定しないスタンスだとだけ述べて続きを書く。

なぜか「産んだから」「経済的に養育しているから」といった理由だけで、全てにおいて子の上に立っていると思っているような親に現実社会でもSNSなどのネット社会でも時々遭遇する。

僕は“子”という存在を、生物として絶えないために守られるべき存在なのだと考えている。
ここでも大切なのは、“その子が子を成すかどうか”が大切という話ではない。

数が多いことが大切なのだ。数は確率を上げる。子を成す確率も上げるし、免疫機能などの多様性によってシンプルに種としての存続率も上げる。人間は精神的にも一人として同じ人はいないし、身体的にもほぼいないはずだから。

そう、つまり子とは本能的に、愛され、守られる存在であることが生物としては正しいのだと思う。

ただ人間は複雑化してしまった。産み、育てる過程の中で、高度な教育を施すようになった。生理的な欲求を満たすものに限らず生産活動に至るまでの教育。その過程で解釈が歪に変化しているのではないだろうか。

「育てる」が「教育する」になり

「教育する」が「教える立場と教えられる立場」を作り

「教える立場と教えられる立場」が「上下関係」になるといった風に

さらに歪になると
「上下関係」が「主従関係」に変化しているケースもあると考えている。

今一度自分自身の「育てる」はどこを向いているのか確認する必要はありそうだ。僕個人としては流石に「主従関係」というほどまでに歪には変化していないものの、場合によっては「上下関係」として関わっている面もあるような気がする。そこは大いに反省すべきだと思っている。

我が家では虐待の類は一切ないと断言できるが、過保護といった点では考える余地がありそうだ。特に僕は息子に甘い気がしている。

やりすぎてないだろうか
守りすぎてないだろうか

自分自身大した人間でもないのに、子に対して過剰に自身の正義を押し付けてはいないだろうか。ここら辺が課題かもしれない。

とまぁ、ここまでが生物としての人を捉えるうえでの解釈なんだけど、社会福祉士ならではなのかそうでないのかわならないが、僕はもうひとつの視点を持っている。

それは親の保護と成長。

様々な現場で福祉的な観点での支援をしてきた。そこでいつも気付かされるのは

親だって、大人だって万能じゃない

ってこと。

大人には時間が経てば自動的になってしまう。
要件が年齢だから、生きていればみんな100%大人になってしまうんだ。

親に関してもそういった場合もある。もちろん計画しての妊娠、出産の方が望ましい形ではあるとは思うけれどそうでない場合も多い。親になる要件は時間の経過だけではないものの、時間の経過+生殖行為で親になれる場合が多い。そう考えるとハードルが低いこともあるのだ。

大人になるのも、親になるのも
精神的な成長といった要素は存在しない。

だから、未熟なまま大人になり、親になる人もたくさんいるのだ。そもそもどこまでが成熟でどこまでが未熟なのかもわからない。野菜や果物のように塾し具合がわかればいいのに。

しかし、未熟なまま親になった場合であっても、子の存在によって、親自身の存在が守られ、成長する場面をたくさんみてきた。

目の前にいる

自分がいないと生きてきけないちっぽけな存在

そんな存在が、生きる希望や一歩踏み出す勇気を与えてくれる場面をたくさん見てきた。

それなりに壮絶な福祉の現場でもそうだけど、日々ある程度穏やかに暮らしている家庭でも少なからずあるのではないだろうか。

別に壮絶ではないし、穏やかに暮らしてはいるけど、僕自身も息子に一歩踏み出す勇気を与えてもらったと思う。

障害を持って産まれてきてくれたからこそ僕はこうやってnoteも書いているんだと思う。彼がダウン症じゃなかったなら僕はどんな人生を歩んでいただろう。きっと今より退屈な人生だったに違いない。

そんな風に、子は親の生きがいになり得るものであり成長を促してくれる存在でもある。

子は親の物ではない

親は子より偉いわけではない

だけど、子にとって親が必要なように、親にとって子が必要な場合だって多くある。

あぁ、この記事を書いてたら息子をもっと大切にしたいと思えた。自己満。

そんなわけで、今日は早く帰って家族でゆっくり過ごすんだ。 

おわり。

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