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「多様性を認める」を勘違いしてる人

おはようございます。

社会福祉士×ダウン症児パパのTadaです。
Tadaのイントネーションはカバ🦛と一緒です。


小噺です

ツルツルする。

駅構内がツルツルする

今日は朝から大雨

そのせいで通勤で利用する駅構内のタイル床がビチョビチョに濡れて、とにかくツルツルする。

滑らないように気をつけて歩いてもタイルのせいか、僕の履いてる靴のせいかツルツルはおさまらない。

転ばないよう一歩一歩慎重に歩を進める。
転ばないよう足の変なところに力が入る。

やったことなかったからわからなかったけど、スノボ初体験で筋肉痛になるって、普段使わないところを使うからなんだろうな。

実際に体験しないとわからないことってある。
まぁ、今回はスノボと床のツルツルだからイコールの体験ではないけど。


さて本題

多様性、多様性と頻繁に見かけるようになった現代社会。

500人から1,000人に1人の確率で産まれる染色体異常であるダウン症を持って産まれた子がいる我が家は世間的には少数派な家庭だとは思う。

障害を持った我が子が受け入れられやすい社会が進んでいることはとても嬉しく思っている。

社会福祉士としても、少数派な子の父としても、この波に乗ってさらに多様性が認められる社会を加速させていきたいところだ。

ただ、色んな人の話や発信を見聞きしていると

「それ“多様性を認める”とは違うでしょ!」

とツッコミを入れたくなる事案を散見する。

今回はそんな事案ついて書いてみた。
その事案は

多数派排他主義

とでも名付けよう。

そのまんまだけど
少数派の人が「多様性を認める」を武器にして、少数派至上主義的な発言をすることがよくある。

以下はあくまで一例だが

「障害のない人は、障害のある人を最優先に大切に扱うべきだ」

とか、

「バリアフリーになっていないお店は悪」

とか、

「学校制度は崩壊しているから、子どもを登校させるなんて悪手。ホームエデュケーションこそ正義」

とか。

古くからある“病気自慢”、“不幸自慢”する人もこの類かなと思っている。

これって多数派の多様性を認めてないことになるよねって話。多様性を認めるということは、認め合うということ。自分と異なる思想、特性を持つ人も「ありだよね」って思うということだ。

これ、気をつけておいて欲しいのは

認め、積極的に接し合え

という話ではない。

認めるが、接し合うには自身の思想、特性とは相入れないから接さない

というのも多様性のひとつだと考えている。
それぞれが幸せに暮らせる距離感は確実に存在する。距離感だって多様性があっていい。

そしてこの多数派排他主義にはもうひとつのパターンが存在する。

それは多数派であるにも関わらず少数派になりたがり、それこそ至上と思う人の存在だ。

コレも現代社会が生み出したものかもしれないが、端的に言うと

何者かになりたい

人が増えているということだと考えている。

これは
多様性を認める思想が強くなったこと

そして
現在の社会経済の不安定さから個の力が重要視され始めたたこと

(といえば聞こえはいいが、企業や組織が社員の人生の責任取れなくなったってことだけど、どっちが良かったかはこれまた人の価値観で変わるからここでは議論しない)

によるものではないかと考えている。

これもまた“多様性”をこじらせている。

人は生きてるだけで何者かになっている。

80億いる人類は誰1人として同じではない。
そんなこと誰だってわかっているはずなのに、なぜか自分ごととなると目が曇る。

“何者か”は秀でてなければいけないと思ってはいないだろうか?

秀でてないといけない世の中なんて
それこそ優生思想が抜けきれてない。
つまり多様性を認める社会の思想の対極。
全く多様性を認めていないのだ。

とか書いておきながらもちろん僕もまだまだ未熟。

新しく生まれた言葉を、素晴らしい概念を、自分の都合の良いように使うのではなく、しっかりと咀嚼して、使えるようになれる人でありたい。

おわり。

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