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充たされざる者


文庫本で1000ページ近くという分量におののいてしまい、長らく避けていた本ですが、読みはじめるとあっという間でした。実験的な形式を取りつつも、内容は紛れもなくイシグロの世界です。

著名なピアニストである主人公ライダーは、中欧のある都市で開催される「木曜の夕べ」に招待され、演奏とスピーチをすることになっています。この都市は何やら危機的な状況にあるらしく、ライダーは救世主とみなされています。演奏会前日から当日深夜までの間に出会う人々が、ライダーに向かって延々と自分語りを展開し、ときにはなぜかライダーがその内容について既知であるという不思議な状況が続きます。ライダーは散々引っ掛けまわされた挙句、ピアノを弾くことなく次の都市ヘルシンキへと旅立ちます。

最初に出会う初老のポーター、グスタフ。初対面のライダーに仕事や家族のことを長々と話し、娘と上手くいっていないので話を聞いて欲しいと頼みます。実際に会うと、娘のゾフィーとライダーは夫婦という設定で話が進むのです。え?どういうこと?私、何か勘違いしたのかしら?全く分からなくなったので戻って読み返したほどです。ここで読者を混乱させるのは作者が意図したことらしく、この後も辻褄が合わずに物語が進行します。ゾフィーのエピソードで躓くと読み進めるのが難しくなるかもしれません。

情報は錯綜していても、登場人物たちが口にするのは、記憶、過去のある出来事、才能、老いなど、イシグロが頻繁に扱う主題です。

例えば才能の問題。

ホテルの支配人、ホフマンの息子シュテファンは、ピアノが好きで両親も才能があると思っていました。ところが、あるコンクールで他の出場者との差を見せつけられ、両親は失望します。シュテファンは「木曜の夕べ」でピアノを弾くことになっており、ライダーがその演奏を聴いたところ、粗削りではあるけれどきらりと光るものがありました。全く才能がないわけではないのに、両親は息子を認めず、本番の演奏も聴きませんでした。一方、シュテファンは拍手喝采を受けますが、自分は井の中の蛙だったことを悟り別の街で研鑽を積む決意をします。

息子に才能がないと決めつけつけるのは思い込みが強すぎるように思いますし、一方でシュテファンが己を知り、精進したいと考えるのは、才能に対峙する姿勢としては好ましいものです。才能があるなしの判断は紙一重であり、決断したからにはどんな結果になろうとも責任を持たなければなりません。そういえば、フランツ・ヴェルザー=メストは、優れた音楽家になるために必要なことは何かと聞かれた際、他の演奏家が努力、出会い、神のみぞ知る、と様々に回答する中、「才能」とバッサリ言っていましたね。マエストロらしい。

音楽好きの身としては、ライダーにはリハーサルの時間はあるのかしら、こんなにもたもたしていたら間に合わないですよ、と突っ込みながら読んでいました。ライダーには、ツィメルマンさんが似合いそうだなあ。


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