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今日もオヤジは、水戸黄門を観る~近代家族批判~

 前回の記事(https://note.com/dame_life_chuo/n/n1b9859cecc43)では子供の視点から近代家族の「ツマラナサ」と「重さ」を論じた。今回は大人の視点から近代家族のそれを論じていきたい。

 近代家族とは大人こそがもっとも苦しめられる桎梏であり、これを解体しない限り、われわれは大人になることに希望を持つことはできないだろう。この記事では近代家族を「人間関係」という観点から批判する。

①ヨメと子供に縛られる生活

 近代家族とはいわゆる「パパ・ママ・ボク」の核家族を意味する。前回の記事では「ボク」の視点から、「家族旅行の退屈さ」(遊び相手がいない!)、「愛情の重たさ」(一人に集中する!)を論じたが、今回は「パパ」の視点で近代家族のシンドサを論じてみたい。

 近代家族は「ヨメと子供に縛られる」ことを強要するシステムである。稼ぎ手たる「パパ」はフルタイム労働を最低週5日こなし、貴重な休日も子供の世話に費やされる。ヨメがいるから他の女の子に目移り(!)することも許されない。教育費がベラボーにかかるから独身時代のように趣味や遊びに金をつぎ込むこともできない。少なくとも20代、30代の若いうちからこのように自由を縛られるのはあまりにも不憫である。

 おいどんの友人も早くに結婚したが、たまの休日に友達グループで遊びに行こうとしても、「子供が熱を出した」などの理由で急遽来れなくなったり、無事行けたとしても、子供の保育園の送り迎えをしなければならないから一人だけ早めに切り上げたりと、満足に遊ぶことができないように思えた。もちろん、エネルギーを持て余した若者らしい異性とのアバンチュール(?)もできない。仕事とヨメと子供に時間的・身体的・心理的に拘束され、それ以外の人間関係が制限される、それこそが近代家族なのである。

②今日もオヤジは、水戸黄門を観る

 年を取ってからも、近代家族の桎梏はなくならない。育児が終われば教育費はかからないし、時間が拘束されることもなくなるからパパは自由になる!……と思いきや、時すでに遅し。子育ての終わった50代、60代になったころには、家族と仕事以外の人間関係はすっかりなくなってしまっているのである。

 生まれ育った土地にずっと暮らしているのならともかく、よその土地に引っ越して居を構えたのなら、子供時代や学生時代の人間関係ともかなりの程度疎遠になっているはずである。子供が大学を卒業するまでの22年間、仕事と育児とヨメにだけ時間を捧げていれば、そうなるのもやむを得ない。中高年になってから過去の人間関係を取り戻そうにも、もう遅い。気づけば、仕事と家庭しか居場所のない、孤人(こじん)と化しているのである。

 おいどんの父親がそうだ。友達を家に呼んできたためしがないし、どこか遊びに行っている様子もない。平日は仕事をし、休日は家でゴロゴロするのみ。夜、仕事から帰り、居間で夕飯を食べながら録画した水戸黄門を観る親父の姿を見て、「俺もいつかこうなるのかなぁ」と思ったものだった。

③今こそ、近代から逃走しよう

 生涯未婚率の高まり、終身雇用制度の崩壊により、近代的な家族観と労働観は崩れつつある。今こそ、近代から抜け出すときではないだろうか。皆婚も、終身雇用も、高度経済成長の産物にすぎない。われわれはいい加減、この時代遅れの昭和モデルを離れ、オルタナティブな家族、労働のあり方を見い出すべきではないだろうか。

 前回の記事でも書いたが、たとえば家族についていえば、「コミューン」のような村で他人同士が共同生活するのも一つだろう。育児はその村のなかでメンバー全員が、「子供はムラの子」と、さながら前近代のムラのごとく行えばいい。共同生活をする以上、痴情のもつれや金銭トラブルなどの問題も当然起こり得るが、それはその都度メンバー全員で解決していくしかない。いかなる制度にも問題はつきものである。

 前近代とは異なり、現代は自由な移動が可能なのだから、その場所に居づらいと思えば他の共同体に移ればいい。そして戻りたいと思えばまた戻ればいい。そうやって、自由に属する共同体を選ぶことのできる社会(もちろん共同体に属さず一人で暮らすこともできる)が望ましいと思う。おいどんが提起したいのは、血のつながりを越えた、交換可能な「家族」なのである。


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