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ポリコレのその先へ~原始社会への回帰と国家の復権~ 個人ノート 

 スガ秀実『1968年』(ちくま新書)によると、日本の戦後は以下のような推移をたどった。

1戦後民主主義(一国平和主義=米国依存 親米ナショナリズム)
2全学連(米帝による日本支配=安保批判 反米ナショナリズム)
3全共闘(反帝・反スタ=大いなる存在の否定→労働者への規律訓練装置としての大学解体、自治会否定 反米ナショナリズムは残る)
4華青闘告発(ナショナリズムそのものを否定、辺境最深部 自虐史観 ポリコレ ポストモダン=小さな物語 偽史(マイノリティ)としての古代天皇制、民族主義→新左翼と新右翼の合流)
 

 ここではそれぞれについて詳しくは述べない。本稿は4の華青闘告発=ポリコレ状況のその先を考えたいからである。
 さて、上のような時代推移をごく簡単にまとめると次のようになる。

アメリカ支配→日本独立→国内の全体主義批判→国家的なるものの批判(ポリコレ)

 では、ポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)の先にはなにが現れるのだろうか。それは、極端な形での「個人主義」ではないだろうか。アメリカを否定し、日本を否定し、さらにはカテゴリーをも否定したら、あとに残るのは「個人」のみになるからだ。なぜ、カテゴリーすらなくなってしまうのか? それは、カテゴリーの暴力性に理由がある。

 たとえば、マジョリティ=強者だとされている「男性」、「健常者」、「白人」の中にも「ステレオタイプ」とは異なる人間が大勢いる。しかし、ポリコレはこれを無視しているのだ。

 すなわち、「男性だからすべて悪い」、「健常者だからすべて悪い」、「白人だからすべて悪い」というふうに個別性を捨象しカテゴリーで一括りにしているのである。マイノリティのカテゴリー化が暴力的だとされるのなら、同様にマジョリティのカテゴリー化をも暴力的だとしなければ筋が通らない。したがって、ポリコレ(マイノリティ優先主義)のその先にはマイノリティ、マジョリティ問わず全ての人間がカテゴリーから解放される社会が到来する。

 
つまりあり得るとすれば、「原始世界への回帰」である。人は完全に一人では生きてはいけない。必ず社会を形成するものである。それを原始共産制と呼ぶかどうかはさておいて、社会の範囲が極めて小さな共同体が乱立することになるだろう。あるいは反対に、「個人」というものがなくなり、大いなる「一」に統合される方向もあり得るかもしれない。人類全員が一つになればもはや対立など起こらないからだ。

 さすがに「大いなる一への統合」はオカルトじみてしまったので脇に置く。社会の極限的な進化の結果が「原始世界への回帰」であるなら、そのような社会が永遠と続くのだろうか。……否、続かないだろう。おそらく、いずれまた「カテゴリー」が生まれ、国家や民族が復活することになる。そして、人類はそれを繰り返していくのではないだろうか。

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