スピリチュアル、宗教、というモノがあるとすれば

                                                                  人間が、各々その肉体をもって、この世の中に生きるために何が必要なのか。
自分の力で生きているのか、生かされているのか。            
世界、全人類、何人も、自分の力で生まれることも、死ぬこともできない。

それだけではない。自分の心というものが解らない。
常に自由になれる心を持っていながら、思うようにならない。

目に見えない何かに束縛されて自由に好き勝手には生きられない。それは
鏡の前に立ってみて、たとえ何日、何ヵ月、自分の顔を一生懸命に見てみても、自分自身が何者であるのか、何なのか。これをどう考えても解らないからである。

人間は、自分自身は、何によって創られ、何をするために生まれて来たのか。
いつ、どこで、誰が、どうして、人間を創ったのか‥。

もし、人間のすべてを解る者がいて、「人間を創った」という者がいて、
それがはっきりと「お前は人間として、こういうふうに創ってあるから、
このように生きなさい」というように、無から有に変わる時、目的も構造も
解る設計図もあって、肉体の創られ方、その心、その人の使われ方、
そうしたすべてが解っていたなら人生何のためらいもなく堂々と楽しく生きて天職をまっとうするであろう。

そこに苦もなく不安もないはずである。

ただ人間は、何人を問わず自由意思をもって生きる生命を与えられてある。
また、その人その人、それなりに正しく生きられる知識も与えてある。しかし、必要以上の知識、経済、美貌。それらはすべて、己にとって最大の敵である。

そこで、自由意思。生きるために与えられた知識。
その暴走を抑えるために考える力。要するに感情を人に与えてある。
 
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生涯、その肉体を動かした心というのは、
いつ、誰が、どこで、どうやって創ったのか。

なぜか自由にならない自分の心、これが何なのか。
人間が作った物、道具は、何を作っても、
それをどこまでも詳しく知っている者が必ずいる。コンピューターにしても、どんな精密な機械、器具にしても、その設計図があり、
使う目的も はっきりとしていて、作った人がいる。たとえそれが、
どこか故障しても、作った人、設計した人であれば、治し方も解る。

しかし、自然界は、人間が創ったのではない。
人も人間が創ったものではない。

大自然の中の小自然。人間は自然の産物であり、
学問の上で何かによってできたものではない。
これは誰かが必要として創った、与えられた命である。

父親と母親が本能的な男女両性の結合によってできた人間。
その、心の容器である肉体とは、固まった物と固まった物をくっつけて、
「このように創った」というわけではない。

女の子は最初から女の子であり、男は最初から男であり、
産れる前から、各々が両性の結合の時から、既に、
女は女、男は男に創られている。
今生に産み落とされる前に、最初からそう決められて創られている限り、
これを途中で変えることも絶対にできない。本来、人間はそう創られている。

そして人間、誰もが、右の方に右の手があって右の形をしていて、
左の方に左の手があって左の形をしている。
これが、人間の創られ方であり、何人も逃れられない事実である。
 
現世に形づくられ、実在するものすべて、その者が生きるために必要な知識、その職責・職能は、無から有に変わるとき、既に形創られる前、受胎された瞬間から、大自然の法則によって完全に決められている。


その人間の創られ方とは

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このような時代に、人間がどの様にしたら、健康に幸せに生きて行くことが出来るのか、明確にこちらのブログで書き記していきます