何故「努力は必ず報われる」のか
はじめに
当たり前ではあるが,御存知の通り「努力は必ずしも報われない」.
けれど,社会において往々にして「努力は必ず報われる」という言葉が使用される.
つまり,本題を言い換えるならば
「何故人は努力が必ず報われるという嘘を吐くのか」である.
結論
例の通り結論から先に書くなら,
「そうやって自身や他者を奮起させ,努力する,させる為」
である
努力は必ずしも報われるとは限らない.
が一方で,
努力をすれば報われる可能性が上がることは基本的に事実である.
努力しない自身より,努力をした自身の方が報われる可能性は上がる.
つまり,一般に「努力はするべき」である.
だが,「努力しても報われないかもしれない」という思考は,我々を努力から遠ざける.努力をしない言い訳となる.
だから我々は「努力をする為」に「努力は必ず報われる」や「努力は決して裏切らない」という嘘をつくのだ.
さて,報われる為に嘘をつくというこの行為は,我々にとって決して特異なことではない.
例えば,子供が布団をかぶらないとして,「布団をかぶらないと風邪をひく」と言っても布団をかぶる子供は多くないだろう.
そのため,「布団をかぶらないとおへそを取られる」などと言うことがある.
勿論,布団をかぶらないとへそを取られるというようなことは一般にはあり得ない.だが,欲しいのは「布団をかぶる」という結果であって,「へそを取られる」という過程,理由は嘘でも真実でも関係が無い.
だからこそ,「努力は必ず報われる」という嘘で自身や他者を奮起するのだ.
この構造,私はこれを宗教に似ていると感じる.
非科学的である,という理由から日本では忌避されがちな宗教であるが,加工技術や冷蔵技術が優れない時代において,寄生虫などが原因で豚肉を食べると病気になる可能性が高いとして,「豚は汚らわしい生き物だから食べてはいけない」や「牛は神聖な生き物だから食べてはいけない」という"嘘(科学的根拠が無いという意味で)"は,病気を防ぐという「結果」の元で意味のあることである.実際に「豚が汚らわしい」か,「牛が神聖」か,「おカバ様が大切か」は関係が無い.
他にも,酒を禁止する宗教では,酒を飲めばトラブルのもとになるという根本理由があるわけだが,そう言っても民衆は聞く耳を持たない.だから神をたて「神のバツが下る」や「死んでから地獄に行く」と戒めるのだ.
「世の中は金じゃない」や「幸せはお金では買えない」なども近しいところがあり,また「勉強なんて将来役に立たない」はその逆であるといえる.
我々は幼少の間は,素直に「努力は必ず報われる」や「世の中お金じゃない」「将来のために勉強は必要だ」と信じているが,ある程度成長すると斜に構え出し,「努力は必ずしも報われない」と言い出す.
だが,それを大人になっても言い続けているのは,正直みっともないと思うのだ.「努力は必ずしも報われない」のような一見現実主義は,その目的を見失い,敢えて苛烈に表現するならば,中二病的な領域にある.
大人になったのであれば,もう一歩先へ進んで「努力は必ずしも報われない」ことを知りながらも,相手の将来を思い「努力は必ず報われる」という嘘をつけるようになるべきではないだろうか.
だって,「布団をかぶらないとおへそを取られる」と子供に言い聞かせる親に「布団かぶらないからってへそ取られるわけないじゃん」などとかっこつけるのはなんとしらける事か,恥ずかしいことか.全くもって空気が読めていない.
しかしながら,「努力は必ず報われる」というのは「へそを取られる」と比べて実にまことしやかであって,一度立ち止まって考えないとそれが敢えての嘘とは気付きにくいとは思う.
同様に,宗教は非科学的で信用ならない,と考える思考も,教徒があまりに真剣に無条件に信用するものだから真実を語りたくなるところではあるが,やはりその先の見えない浅慮な評価者であって情けない.けれど,そのような大人はたくさんいるので,この場でひっそりとその価値を改めて欲しい.
言われたことを信じる時期,真実を知る時期,真実を知ったうえでその真意を知る時期,と人は成長する.
もしかしたらその先に,また真実を語るべき時期が来るのかもしれないし,堂々巡りをするのかもしれないが,今のところ私はその境地を知らない.
余談1
と,言うわけで
基本的に語りたいことは語ったので余談の1であるが,例えば最近話題の「眞子さま小圭さんの結婚」にみられるような状況.親や親族が「あの人と結婚するのは辞めおきなさい」とか「その職業は辞めときなさい」という事例.一般には「お節介」であり,当人には納得できないところではあるが,実際として,それは親や親族の経験や分析から来る「アドバイス」であって「親切」である.
ではあるけれども,これというのはなかなか伝わるものではない.親切であればあるほど「事実」や「科学」を理由として語るが,「事実」や「科学」は根拠として弱い.感情に浸っているものにとって,「事実」は最も軽い事象ではないだろうか.
それは,子供が「風邪をひく」事を意に介さないように.
神のいた時代は神にお伺いを立て,「神が結婚するなと言っている」と言えばまだ納得の余地もあったが,神の死んだ現代では難しいことだ.
私自身,「絶対にそれは辞めといたほうが良い」と思いつつも,科学的にそれを説明しても意味はあるまい,と,口をつぐむこともある.
内容が恋愛や相手が女性であればなおさらである.
現代において,「カリスマ」や「アイドル」たれば,理由などなくとも相手を改心させうるかもしれないと思うと,無力を嘆くばかりである.
余談2
さて,宗教の話が出た.よく「日本人は宗教を信じない」などというが,私は決してそうは思わない.
例えば,私たちは食事の前には「いただきます」後には「ごちそうさま」とあいさつをする.目上の人を敬い,敬語を使う.かしこまる場にはスーツで行き正座をし,祝儀を用意する.初詣も行く,お参りも葬式もする,墓も立てる.
私達は特に理由もなくそれを実行する.何となくの礼儀や常識や周りがそうしているから,という理由でそれを身につける.これは「日本教」と呼んで差し支えないものでは無いだろうか.宗教は信じないと言いつつ,私達には日本教が刻み込まれている.それはある種理想的な宗教の形である.
というか,例えば年上を敬いましょう,などというのは元々儒教の思想であって,正に宗教の教えである.
ところで,私は日本人は非常に信心深いと思っている.
日本に宗教が無いのは,余りの信心深さから「騙され」宗教に対して「怪しい」という感情を抱いているからではないだろうか.
日本人の多くは上司の言いなりになってきた人種だ.古来より王や天皇や城主や将軍の言いなりになって,言うことを聞かないならば首を切られ淘汰されてきた人種であると思う.
宗教は信じないと言いながら,日本ではなんだかんだと宗教や洗脳が蔓延している.或いは,例えばコロナワクチンによって操作される,というようなことを信用する.或いは,あまりの信心深さから教徒が暴走し,無理やりな勧誘をして問題になったりする.
まあ,私自身は宗教の価値を認めつつ,全くもって宗教というものを信用する気にはならないが
とはいえ,日本にはもっと「正しい宗教」があって良いと思っている.
宗教は決して「正しい過程」や「科学的根拠」を持つものでは無い.持つ必要が無い.無条件に信じ,その結果「救われ」「心のよりどころ」となるものであって,そこに理論や科学を求めればむしろ破綻する.
何にせよ「正しい宗教」が広まらない限り,「怪しい宗教」絡みでトラブルは起き続け,また,日本に蔓延する自殺者や鬱は無くならないと思っている.
日本人はもっと「非科学」の恩恵を受けてよいと思う今日この頃である.
以上