見出し画像

大人計画『キレイ―神様と待ち合わせした女―』を観てきました。

<あらすじ>三つの国に分かれ、民族戦争が100年続く“もうひとつの日本”。争いのさなか、民族解放軍を名乗る集団に誘拐監禁されていた少女が10年ぶりにソトの世界に脱出した。過去をすべて忘れた少女は自ら“ケガレ”と名乗り、大豆でできたダイズ兵の死体回収業者のカネコ組の仲間となる。ダイズ兵を食用加工するダイダイ食品の社長令嬢カスミとも奇妙な友情で結ばれるケガレ。死体を拾い小銭を稼ぐ彼女を見守るのは、成人したケガレであるミソギだ。死に憧れながら死ねないダイズ兵のダイズ丸、頭は弱いが花を咲かせる能力を持つハリコナ、誘拐監禁しないと女性と一緒にいられないマジシャンらとも出会い、過去、現在、未来が交錯する時間の中で、ケガレは忘れたはずの忌まわしい過去と対決することになる。<作・演出>松尾スズキ <音楽>伊藤ヨタロウ <出演>生田絵梨花 / 神木隆之介 / 小池徹平 / 鈴木杏 / 皆川猿時 / 村杉蝉之介 / 荒川良々 / 伊勢志摩 / 猫背椿 / 宮崎吐夢 / 近藤公園 / 乾直樹 / 香月彩里 / 伊藤ヨタロウ / 片岡正二郎 / 家納ジュンコ / 岩井秀人 / 橋本じゅん / 阿部サダヲ / 麻生久美子 / 他<会場>会場 シアターコクーン (東京都) / フェスティバルホール (大阪府) / 博多座 (福岡県)

※『ゴーゴーボーイズゴーゴーヘブン』及び『キレイ』のネタバレを含みます。また、以下の文章は独自の解釈に基づくものであり、正しい解釈とは限りません。


私にとって松尾スズキさんの作品との出会いは2016年の『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』でした。

当時、そこそこ観劇はしているし、なんとなく演劇を知ったかぶる今思い返してみるとかなり背伸びをした可愛くない高校生だった私。

そんな私にとってこの作品は衝撃的でした。

全体に、ブラックすぎる笑いが散りばめられ、混沌とするストーリーの中で、話の出口が見えたか…?と思う中で、思いも掛けないラストを迎え、観劇後には軽いパニックを起こしました。

しかし後からじわじわくる脳の心地よい疲労を感じながら、沁み入ったリズミカルでキャッチーな味わい深いセリフを思い出していると、なんともいえない恍惚があったのです。

私はこういう舞台が観たかったのか…としみじみと感じ入ってしまいました。

この作品で非常に印象的だったシーンがラスト。

真っ白な舞台。すべての人間が真っ白なヤギになります。

そして、1匹のヤギが口を開きます。

「その日、一組の日本人夫婦が、誰にも知られず行方不明になった。」

激しいお囃子の中、これが拍子木で断ち切られ終劇です。

怖すぎました。鮮烈にイメージが頭に残っています。

白。色にはそれぞれイメージがありますが、白にはどんなイメージがありますか?

『ニンゲン御破算』『ゴーゴーボーイズゴーゴーヘブン』では、和楽器の使用を通じて和のテイストを持ち込んでいます。
(『人間御破算』は観劇していないのですが、インタビューで松尾さんがそのように語っていらっしゃいました。)

では、和のテイストにおける白はどんな意味合いがあるのか?

頭に浮かぶのは歌舞伎の白塗りです。

歌舞伎は化粧によってさまざまな人物を表現する。特に地肌の色がその人物の役柄を示す。基本的に白い顔は善人や高貴な人で、白粉(おしろい)で顔一面を均一に塗ることから白塗り(しろぬり)という。日本には古来顔を白く塗る伝統がある。白は高貴な色であり、神に選ばれた者の証。また色白は美人の条件でもあり、日に当たって労働することのない上流階級という地位や身分を表していた。「白塗り」は、基本的に白の分量が多ければ多いほど、真っ白に近いほど、高貴であり、善の度合いが高い。ただし悪人でも高貴な人は白塗りである。http://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/phraseology_category/kesyou_to_kumadori

白は神に選ばれた者の証。私の中で転じて、神にほぼ等しい存在/神に迎えられた(他界した)存在という理解に落ち着きました。(さらには白ければ白いほど、善というところも特筆しておきます。)

まさに『ゴーゴーボーイズゴーゴーヘブン』で感じた死の気配というものに結びついてくる部分があります。

さて、長々と『ゴーゴーボーイズゴーゴーヘブン』について言及しました、私は今回どの舞台について語りたいのか。『キレイ』です。

『キレイ』にも印象的な「白」がでてきました。

『キレイ』の「白」はカミ、そしてモニターに登場する少女、そしてアンサンブルのような立ち位置の白い髪に白いワンピースを纏った少女たち。

カミは、死に損なって生きながらえることによってある意味で神に近づいたと言っても過言ではないマジシャンの分身的存在です。

一方少女はケガレが地上の世界、ソトに出るときに地下に残してきた自分の半身であり、少女ミソギです。(カミのフリをしていました。)

少女ミソギとは何者でしょうか。

ケガレ「……人間て何、ごめん、人間から生まれてくるの?」

マタドール「ここからね。ここの、みぃ〜ってしたお饅頭から生まれてくるの。あんたには間違ったことをいっぱい教えたね」

ケガレ「気持ち悪い!」

マジシャン「そう。その気持ち悪さを、ミソギがすべて引き受けてくれた」

少女ミソギはケガレの中の穢れた部分です。少女ミソギは、自分をケガレから切り離し、「ソトに出たら、キレイなものをいっぱい見てね。」とケガレを送り出していました。

少女「……生きててもいいよ、ケガレ。私を犠牲にして、生きなさい。私を犠牲にして、生きなさい、ケガレ」

こうしてケガレはソトに出て、時間を重ね奇しくもミソギという名前を得てようやく戻ってきたのです。

2人は「宝物の見せ合いっこ」をしようと話し、舞台の最後に地上に出てくるのは「新しく生まれたケガレ」です。

「新しく生まれたケガレ」はこのように歌います。

♪そして 名乗るよ 私はキレイ

 耐えてこもって生まれて一人

 目に見えるすべてがはじめての景色

 (中略)

 ケガレてケガレて私はキレイ

ケガレてケガレてケガレはキレイになるのです。ケガレは自分の中の穢れた部分を受け入れて、初めて自分がキレイな存在だと悟っています。

ケガレこそがキレイ、ケガレこそ人間としての善(白が表現するもの)であり、人間らしさなのではないでしょうか。


松尾スズキさんの作品には、白が示すような「神」であったり「死」であったり「善」といったテーマが散りばめられているように感じます。

作品の中から特に印象に残っているようなこうした崇高なテーマが、私にいつも大きなインパクトを与え、私を惹きつけてやみません。

また大人計画の作品、松尾スズキさんの作品を観劇できる日を心待ちにしています。