「宇宙の意味」

 井筒の意識の構造モデルを、そのまま太陽とその惑星と地球に準えることが出来る。つまり、意識のゼロポイントに太陽が在り、そこから熱が放出され、煮え滾るお湯のような阿頼耶識を作り出す。そのエネルギーが元型を作り出す。この元型が惑星である。この惑星からの働きが地球との相互作用で、独特のイマージュ群を作り出す。ここが中間領域になる。そして表層意識がそのまま地球である。

 井筒の意識の構造モデルは、そのまま意味と存在に照応するので、今の話を、意味と存在の構造に読み替えることも出来る。

 アンリ・コルバンによると、中間領域というのは、天使が神(形而上的根源)を伝える領域であり、カバラにおいては、一つ一つのセフィラに惑星と天使が配属している。言い換えれば、神を中心とし、天使がその周りに存在し、その中に地上がある、ということになる。

 面白いのが、地球にもこの構造があるということだ。地球の核が太陽で在り、地層という重層的に存在するところが、いわば元型の場所になる。その重層的なところから、海という中間領域を通し、地表が在る。

 最近、考えているのは、形相と形相が相互に働き合い、さらに小なる形相を形成していくということだ。元型と元型が働き合い、さらに小なる元型を形成するでも良い。形相というのは鋳型に喩えることが出来、いわば殻のようなもので、この殻が重なることで、重層的な地中が出来上がっている。
宇宙に話を戻すと、始めは太陽からの働きが在るのだが、その周りに出来た惑星は、元型であり形相なのだから、惑星同士が働き合うようにして、さらに小なる元型を作り出していくのだと言える。スーフィズムでは、神名(元型)は無限にあると言う。恐らく、事物が増加するほど、元型もまた増えていくのだろう。

 元型はまるで細胞のように、分裂し、増殖していく。というよりも、元型と細胞というのは、はっきりと照応関係にあるのかもしれない。細胞には遺伝があるが、元型というのも遺伝するものである。前著『心の研究』ではうつるということについて考えたが、うつるということは、対象論理で考えられるものではなく、はっきりと述語の論理で考えられるべきものである。つまり、対象が或る別の対象に変わるというよりも、対象の性質や働きが、他の対象に移ること、それがうつりの原理であった。そしてこのうつるという語は、感染るという漢字にもなる。これは細菌の話である。

 物から物へ「感じ」が移るのは、細菌が侵食することと同様である。そして感じが移るというのは、物の形相(雰囲気)が移るということである。元型は他へ伝染していく一つの細胞である。この路線から、元型と生命について考えていくのも面白いかもしれない。細胞にはさらに細胞の元型が、物質になければならない。そこに生命の元型がある。

 このように元型は重層的かつ多層的に存在する。そして、元型同士が働き合うことにより、新たな元型を生む。これは意味の幅になる。つまり、意味のゼロポイントから阿頼耶識に発せられるエネルギーは、相互に働き合って中間領域を通して、表層のものとまた働き合う。表層的な意味は、深層にある抽象的な意味と結びつき、象徴的になる。概して、抽象的な意味の方が一般的であるので、具体的な意味はその意味の幅を広げるのである。

 これが実は地球という事物についても同様のことが言え、核から発せられるエネルギーが、殻という形相を幾重にも重ねることにより、重層的になる。この重層的な作りが、地表にある事物に遺伝しているはずである。つまり地表にある事物には、潜在的に抽象的かつ一般的意味の形相が存在している。そもそも事物にこの構造がなければ、私たちが事物を象徴的に捉えることは不可能だろう。しかし、ここでも重要なのは、あくまで事物が事物に遺伝していると考えるのではなく、事物の形相が事物に遺伝していると考えるべきなのである。

 惑星という形相は、確かに人間に影響を及ぼしている。それは素朴な日常生活にもある。一週間の曜日がそれに当たる。これはいわば、天から天使が遣わされ、地表に意味を注いでいるのである。例えば、月曜日の月というのは、その幾重にも重なる形相を見れば、陰陽の陰に当たり、男女に女に当たる。そして月曜日というのは、太陽と対になっているのであり、太陽という晴れ晴れしさの対の陰りであり、それは消極性や、落ち込み、という意味が重層的に存在している。かなり俗っぽい言い方をすれば、日曜日という超越的な場から、月曜日という学校や労働という、日常的な地上生活に落ちるわけであり、そこには消極性や陰りがあるわけである。これは惑星が私たちに与えている意味の一例になる。ここでは太陽との対比によって、月の意味が出てくるので、太陽の意味も私たちに作用している。

 『心の研究』では地球の意味を考えたのだが、井筒の意識の構造モデルや、カバラやスーフィズムを学ぶと、宇宙と私たちの意味連関についても考えることが出来る。前著では気候が私たちの気分や感情の象徴であると考えたのだが、そもそも気候というのは、宇宙からの働きに影響されているので、気分や感情の形相は天体にすでにあったのだと言える。

 このように重層的に存在している形相を剝がしていくことで、形相を遡り、私たちは物事の起源に達することが出来る。そしてこれこそが、アルケーを明らかにする唯一の方法ではないだろうか。古代ギリシャのアルケーも、ただ単に火であるとか水であるとか、そのように考えるのではなく、換言すれば単なる事物として考えるのではなく、その形相から考えれば、まだ活かしようはあるのではないか。つまり、世界は単なる事物としての火から出来ているわけではないが、火の性質や働きという形相が、少なくとも一つの世界の要素としてある。しかし形相は重層的なので、そこには水の形相もあるかもしれない。しかしそれは事物としてではなく、形相として捉えれば、火と水の形相が重層的に世界の形相の一端を担っている、と考えられる。

 ソクラテスから始まり、哲学は物事をはっきりと、精確に見定めるという姿勢を取ってきた。それはロゴス的な知性である。精確な言語表現による知性である。しかしそこで直感的な知性が捨て去られてしまった。それをレンマ的な知性と呼んでいる。いわゆる大乗仏教などがレンマ的知性をまだ守っている。

 レンマ的知性は、直観知だと言われているのだが、私が思うに、これは誤りである。直観知ではなく直感知であろう。レンマ的知性は、暗黙知や言葉にならないものの知と言われている。直観というのは、意識が明晰な状態である。しかし直感はなんとなく感じ取るものである。つまり直観した時には、言語化など容易く出来る状態でなければならないのであり、直感の方は言語化以前の知なのである。このことも、全てはロゴス的に考えてきたことに起因する。まだまだレンマ的知性は未開拓なのである。

 前にも書いたかもしれないが、西田幾多郎は東洋の哲学を考えたが、純粋経験というのも直観というより直感である。純粋経験の記述を見て、直観と直感の区別を踏まえれば、それは明らかである。それはそれで当然で、西田は西洋哲学を踏まえて、東洋哲学を考えたのだから、使う語が西洋的だったのである。

 そもそもギリシャ語でいう直感という語、διαίσθηση(ディエスティスィ)も、英語の直感という語、「intuition」も直観という意味も持ち合わせるため、直感と直観を分けて使う語がなかったのである。

 しかし、それもそのはずで、直感と直観というのは、私たちは両方を統一的に使っているのである。思惟というのも、普段は直感的に色んなことを思うが、時々その多様な思考から、或ることを閃く(直観する)というように、どちらか片方だけ使うということが有り得ない。しかし、物事を精確にはっきりと見定めようとした、ソクラテスから始まる哲学が、直感的なものをないがしろにし、直観を優先にすることは無理もない。そして、とうとう直感的な知は宗教や文学などにばかり、場所を取られ、その最たるものがスーフィズムやカバラなのだが、哲学や科学の領域からは排斥されていった。しかし、ことはそう単純でもない。なぜならフランス現代思想などは、文学的な表現も多用するので、まだそこには少し直感的な知性が生きているとも思える。

 そしてベルクソンなんかは、潜在性に目を向けて記憶を考えたのだから、明晰を追うことで忘却されたものを、取り返そうとしているとも思える。しかし、直観だけではその記述は上手くいかず、直感がなければズレがある、というのが私見だ。つまり記憶にアクセスさせるのは、直感という無意識的な領域に通じる知性があるからである。

 現代では意識偏重主義になっている、というのは前著でも述べた。そしてそのせいで、リベットの実験などは意味の分からない、説明が難しいものになっている。しかしそもそも私たちは直感的な行為というものをしている。というより、それが土台だろう。したがって私たちが行為を明晰に意識する、それ以前にも行為は成立している。

 ロゴス的知性のおかげで、確かに自然科学は発展し、事物は発展した。それは分析し、言語化する作業だった。これらは無駄だとは思わないし、思えない。しかしレンマ的知性を忘却することで、説明のつかない事態が多く発生してしまっているのも事実である。

 例えば、対象を分析することで追及されるのは、どこまでも対象に過ぎず、対象の起源はないがしろにされる。現代の誰が心の元型を答えられるだろう。現代の誰が心はどのように生まれたかを答えられるだろう。

 そしてフッサールを始めとする、心理主義批判は、意味の豊かさを失わせてはいないだろうか。精確性や厳密性、論理を追及した記述には、何の色気もない。まるで全部が鉄で出来た機械を見ているようだ。

 繰り返すが、分析に意味がないと言っているわけではない。それはそれで有用だが、他方で排除してしまったもの、それを取り戻さなければ、世界は説明出来ないし、その認識から行動していけば、やはり行き詰ることが出てくる。いわゆる世界の無価値だとするニヒリズムも、心の情動を忘却してしまったのではないか、直感を失ったのではないか、と私には思える。

 レンマ的知性を今一度思い起こせば、ソクラテス以前の哲学も有意義になってくる。そしてそれは心の復権でもある。そして世界はこの心の形相が幾重にも重なり合い、限定し合い、現れた世界なのである。宇宙の太陽と月の働き合いは朝と夜を生んだ。朝と夜の間には昼と夕がある。この朝昼夕夜には春夏秋冬の形相がある。春夏秋冬の形相には、温かさや暑さ、涼しさや冷えが重なる。この構造は天候を左右する。そこには感情や気分の形相がある。このように世界は形相と形相が重なり合い、働き合い出来ているのである。

 神秘的な事柄は私を元気にさせる。原子の構造と天体の構造が同様であるということは、それを思うだけでワクワクさせるものがある。そしてそれらが存在や意味、意識の構造と同様であるということは、私をさらにワクワクさせる。それらは同一律を以ては何も説明がつかない、だが私たちの直感はそれらが照応すると思える。いわゆる信仰というものの在り方もこれで良いだろう。私たちはそう感じざるを得ない、と。

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