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ありがとう大塚RED-Zone

こんにちは。

『音楽家として生き続けること』を永遠の課題としている、だいぞう(坂本大蔵)と申します。

今回は、プライベートな内容を中心に、前回の記事の続きを書いて行きたいと思います。

・・・

1.東日本大震災

2011年3月11日。

多くの悲しみに包まれる出来事が起こりました。

当時、僕は地下で仕事をしており、遅めの昼食を取っていました。
(この時期も、ライブハウス大塚RED-Zoneのスタッフとして働いてました)

今まで体験したことが無い激しい揺れに、スタッフとリハーサルを行っていた出演者と全員で外へ避難しました。

冷静を心がけていたものの、箸を持ったまま外に出ていたことに、動揺していたことが伺えます。
(大きな揺れは2回ありましたね)

しばらくして揺れは収まり、皆の安否も確認できたところで事務所に戻りテレビをつけると、そこには町が津波に呑み込まれて行く、現実とは思えない衝撃的な映像が流れていました。

その日の公演は中止となり、都心も電車が止まり帰宅できず、ライブハウスを緊急避難所として開放し、帰宅難民の受け入れ体制を取って夜が明けるのを待ちました。

2.自粛の波

震災後、その被害規模は近年の先進国に例のないほど甚大なものとなりました。

また、被災地域以外にも広く経済的な影響を及ぼし、多くの方が耐え忍ぶ闘いを強いられたことと思います。

僕自身も、職場自体は物理的な被害を被った訳ではないものの、エンターテイメント業界には自粛ムードが漂い始めたことにより、3月一杯はほぼ公演がキャンセルとなりました。

テレビ業界もスポンサーの自粛の影響で、ひたすら『AC JAPAN』のCMが流れる、異様な光景が続いていました。

スポンサー自粛についての理由は、こちらの記事をご覧ください。

この影響で、4月には店も危機的状況に陥って行きました。

社長は体調不良で店に来られない日が多い為、営業はスタッフのみで継続してましたが、給料の遅延が発生したことで、社長も交えての全体ミーティングを行うこととなりました。

そして、ミーティングで具体的に提示されたのは、この2つの協力要請でした。

・生活が耐えられそうな人は、引き続き給料の遅延の協力をお願いしたい。

・なんとか巻き返して、店を回復に導いて欲しい。

やばい、ちょっと根性論。

疲弊していたスタッフ全員に、更なる追い打ち。

今となっては笑い話ですが、当時は全く笑えませんでした(笑)

ただ、どの道この業界で生きて行くなら、自分達でやるしかない。

誰1人として辞退せず、残った10数名のスタッフで協力し、再建して行くことになりました。

そして、更に僕にはもう1つの相談を持ちかけられました。

「店長としてお店を任せたい」

・・・当時は、僕より経験値も年齢も上のスタッフも多数いたこともあり、正直戸惑いました。

それに、経営知識がほとんどない中、震災の影響により経営状況が悪化した中での就任。

『3日考える時間をください』

音楽活動との兼ね合いもあり、すぐに答えは出せませんでした。

3.店長

このタイミングというのは、前回の記事で書いた音楽活動の大きな目標を決めた直後でもあり、サポートメンバーにも相談しました。

その仕事内容の大変さから、店長就任のことを反対するサポートメンバーもいました。

しかし、RED-Zoneは上京当時からお世話になって来た場所であり、自分を育ててもらった場所。

再建したい気持ちは強く、当時のスタッフと仕事をやり続けたい気持ちも強かった。

このまま制作スタッフとして続けるか?

もしくは、店長を引き受けるか?

悩んでいる中、ブッキングマネージャーからこの様な言葉をいただきました。

お互い補い合える部分は、補い合えば良い。
ブッキング、PA、受付。
特化したスタッフは揃っている。
ただ、今舵取りが不在なのは確かだし、
疲弊している皆をまとめる役が居ない。
それを出来るのは、だいぞう君だと思う。

また、音楽活動のメンバーであるRyoju君からは、

今後、音楽活動をして行く上でも、
だいぞう君が店長として携われることは、
メリットも沢山あるのでは?

背中を押される言葉でした。

相談を受けてから数日。

RED-Zoneの店長を、引き受けることにしました。

4.稼働開始

業務開始にあたり、まずは過去の経営状況のデータを全てもらい、現状把握と不透明だった部分を明確化することから始めました。

すると、今まで知らなかった事実が判明。

『毎月200万程の借金返済』

え...

返済だけで年間2,400万ですやん。

当時、RED-Zoneというライブハウスを経営する上では、月400万の売り上げを作ればペイ出来る状態でした。

しかし、その借金返済により毎月600万の売り上げが必要だったのです。
(僕がスタッフとして携わる前からの負債であることが判明)

店の経営をして行く上では、単純計算600万÷30日として、1日20万の売り上げが最低条件。

中規模のライブハウスで、この売り上げをコンスタントに出し続けることは、中々容易なことではありません。

震災後の大赤字の巻き返しと、スタッフ給料の未払いもある中、渡された資料には絶望が詰まっていました(笑)

5.変わって行く空気感

お金は生活の血液。

ボランティアでもない限り、仕事で対価をいただくのは至極当然の話です。

皆強く言わないけれど、スタッフからは疲弊、苛立ち、負のオーラが漂っていることは分かりました。

『このままじゃいかん』

まず、僕が真っ先に取った行動は、事務所の整理とコストカットでした。

一つ一つ蓋を開けて行くと、物も支出もとにかく無駄が多い。

仕事をし易い環境作りと、システムの再構築を皆と相談しながら改善して行きました。

結果、半年で月100万弱のコストダウンに成功。

また、小銭の売上げを侮らず、楽屋の自販機設置やコインロッカーを設置したことも運営の助けとなりました。

ただ、それでも自転車操業状態からは中々脱出できず、給料対応は1人1人個別に相談しつつ、売り上げから工面して行く状況を強いられました。

震災特例融資の調達も取り合ってもらっていたものの、こちらは中々動かず。

胃に穴が開きそうな日々が続いていました(笑)
(思い返すとコロナ禍現在の日本の縮図の様)

そんな状態が続いていたので、何より心がけていたことは『スタッフ一人一人の本音と向き合うこと』と『メンタルケア』でした。

僕はブッキングのプロでもなければ、PA、受付のプロでもありません。

せめて、スタッフが気持ち良く楽しく仕事をできる環境作りをして行くことが、今できる自分の一番の務めだと思い、一人一人とのコミュニケーションの時間も大事にして行きました。

結果、震災前は会話の少なかったスタッフ同士の会話が増え、喧嘩の仲裁なんてこともありましたが、少しずつ笑顔が増えて行った様に思います。

6.横の繋がり

店長業務にも慣れ始めた頃、それまで積極的に行っていなかった周辺のライブハウスとの連携や、地域の祭りへの参加、他店との提携など「バンドの売り上げに頼らない施策」も考え、実行して行きました。

当時、店としてもインタビューを受けた記憶がありますが、ネット上に残っていたのはこれだけでした。
当時、僕が作ったサイトが残っていました。
それまでは競合でしかなかった周辺のライブハウスと手を組み、合同イベントなども行うべく、あいさつに回りました。
話を聞けば、みんな音楽が好きで素敵なハコばかりでした。

https://www.ompass.info/

大塚中のライブハウスやライブバーが、一斉に協力して町を巻き込んで行う、音楽祭の実行委員にもなりました。
当時、近所で開店したばかりのたこ焼き屋さん。
『本格的なたこ焼きが、ライブハウスで食べられたら』
そう思って交渉したところ、快く出前を引き受けてくださいました。
お客さんにも好評でした。
(現在も営業中です)

こちらの記事にも掲載しましたが、秋葉原のネットテレビ局で、芸人さんと組んで番組を放送し始めたのも、Daizoとしての活動ではありましたが、RED-Zoneの為でもありました。

7.力及ばず

店長就任から約一年。

ライブ以外の売り上げも少しずつ増え始めて、スタッフ同士の関係性は良くなるも、経営不振は回復せず。

2012年5月。

『これ以上この場所で継続して行くことは不可能』

社長からの決断でした。

尽力するも及ばず、6月30日を持って大塚RED-Zoneは閉店することが決まりました。

当時書いたメッセージが、ネット上に残っていました。

もっと上手く舵取りができたら...

自分の力の無さ、スタッフに対する申し訳なさ、様々な想いが混同しました。

そんな中、再びブッキングマネージャーからの言葉に救われました。

もしあの時、
だいぞう君が店長を引き受けてくれていなかったら、
店はもっと早く無くなっていたと思う。
最後の1ヶ月はとことん派手に楽しく終わろう!

多くのアーティストさん、バンドさんに出演をお願いし、多くの方々に支えられた最後の一月は、喜びと悲しみが入り交じる毎日でしたが、売り上げも過去最高額を更新しました。

最終日には、お世話になった沢山の方々を招いてお酒を交わし、スタッフ一人一人に感謝の言葉と、皆でがんばって作った売上から、未払い分の給料を渡しRED-Zone店長としての業務を終えました。

そして、最後に社長に伝えました。

『この1年、、いや、上京してから10年間。ほんとにお世話になりました!』

すると

「今まで大変な思いをさせてしまってごめんなさい」

・・・思いもよらぬ社長からの返答に、お酒が入っていたこともありましたが、心境はまさに...

まさに、こんな感じです。

スタッフや出演者、そしてお客さんの笑顔に支えられたこの経験は、一生忘れることのない宝です。

そして、22歳で初めて訪れた時から、32歳になるまでの10年間。

僕を育ててくれた場所は、間違いなくこの大塚RED-Zoneです。

ありがとう、大塚RED-Zone。

ちなみに、現在RED-Zoneは池袋に移店して、今も営業されています。
あれだけ大変な思いをして、またライブハウスを開くところが本当に凄い。
純粋に音楽好きな人であることは、出逢った頃から変わりません。
ちなみに『Project LOVE&ROCK』でも出演させていただきました。
また、大塚RED-Zoneの跡地に開店した、Hearts+にも何度も出演させていただきました。
コロナ禍が落ち着いたら、どちらも顔を出しに行きたいと思います。

8.最後に

さて、今回の記事では音楽活動のことにはほとんど触れていませんが、店長業務をしながらイベントもたくさん開催し、音楽活動はしっかり行っていました。

また、被災地にも2度訪れライブをさせていただきました。

この時期は、人としての在り方などを考えさせられることも多く、創る楽曲も『エールソング』が増えていた様に思います。

最後になりますが、2012年6月に行った大塚RED-Zoneでのラストライブ、ダイジェスト映像を載せておきます。

次回は、その後に音楽活動のみで生計を立てはじめた頃の話を書こうと思います。

皆さんの毎日が、心豊かなものになります様に。


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