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家族からの突然の知らせ

こんにちは。

『音楽家として生き続けること』を永遠の課題としている、だいぞう(坂本大蔵)と申します。

前回の記事は、事務所加入から2006年までのことを書きました。

今回は、それ以降の出来事について書きたいと思います。

・・・

27歳となった2007年。

この年は、年4回に亘りワンマンライブが決定。

更に、全てのワンマンが昼と夜の2回公演。

通常のライブやストリートライブもやりながら、2007年ラストワンマンライブとなる12月8日には、アルバムのリリースも決定。

また、この頃は活動や楽曲制作において、僕のイメージする方向性と、社長のイメージする方向性に、少しずつズレが生じて、ギクシャクすることや言い争いも増えて行きました。

プレッシャーとの闘い。

自分との闘い。

俺より強いやつに会いに行く(え)

ワンマンシリーズのタイトルして付けた『無窮の闘い』という言葉を、そのまま具現化して行く様な一年となりました。

この辺りに作っていた楽曲は、どんどん攻撃的なサウンドになり、曲の内容も闘っている作品が多かった気がします(笑)

1.妹からの電話

2007年の下半期。

それは突然起こりました。

『母が倒れた』

深夜、妹からの電話でした。

尋常じゃない様子とその言葉に、血の気が引いて震えたのを覚えています。

翌日の始発で、地元行きの電車に乗り込みました。

病院に駆けつけると、そこには窓の外を眺めている父の後姿がありました。

どんな時でも『大丈夫!』が口癖だった父。

『今回はやばいかもしれない...』

開口一番にその言葉を聞いて、恐る恐る病室のドアを開けると、ベッドに座っている母の姿がありました。

言葉を投げ掛けてみると、事の重大さはすぐに解りました。

久々に会う母は、言葉も喋れず人格も変わっていました。

そして、話しかけても僕の事を全く覚えていませんでした。

病名は、脳梗塞。

『当たり前』が『当たり前じゃなくなる瞬間』

初めてそれを痛感しました。

幸い命に別状はないけど、確実に後遺症が残ることと、突然の発作で危険な可能性がしばらく続くとのことで、母はそのまま入院となり、僕らは家族会議をすることにしました。

2.帰郷

当時、父は変わらず単身赴任で実家にいるのは週2日。

長女と、次女もそれぞれ実家を出ていたので、母と三女の2人で過ごすことが基本の様でした。

僕はその頃、東京で借りていたアパートの更新時期が迫っていました。

『地元に戻ることも検討すべきかもしれない』

ただ、当時はRED-Zoneのスタッフとして、制作の仕事もしていました。

また、東京から離れることで、音楽人生が終わってしまう気がしてなりませんでした。

しかし、そんなことを言っている場合じゃない。

散々、好き勝手やって来た人生。

下手したら、母に対しても家族に対しても、後悔する選択になるかもしれない。

...出した答えは

『一時的な帰郷』

でした。

『母の容態が良くなるまでは地元に滞在』

そう決めて、アパートを引き渡す準備を始めました。

3.再び地元へ

上京の時と同じ。

トラックを借りて荷物を詰め込み、4年間住んだ場所を離れ地元群馬へ。

戻ることはないと思っていた実家の部屋は、上京前のままでした。

ひとまず、既に決まっているライブの日や、レコーディングがある日は東京へ。

東京の制作の仕事は、ある程度は自宅のパソコンでもやらせてもらうことになりました。

しかし、母の回復スピードは想像以上に早く、すぐに自宅で普通の生活をできる様になりました。

言葉は喋れず、急に不安定になり泣き出すこともありましたが、笑顔も戻っていました。

日中は妹が仕事でいないので、自宅で曲作りをしつつ母の様子見。

ただ、それでも時間はあったので、地元にいる時も何か仕事ができたらと考えていました。

そんな中、地元でお世話になっていた人から突然連絡が入り、僕が群馬に戻った噂を聞きつけたらしく、バーを開店するので手伝ってくれないかという話でした。

『夜なら仕事ができる!』

早速、引き受けることにしました。

4.あの日もし僕がいなかったら

帰郷から一ヶ月も経たず、母の容態も安定し、地元での仕事にも慣れて少しずつサイクルができて来ました。

2日~3日のペースで群馬と東京を行き来しつつ、その生活スタイルにも慣れて来た頃、地元滞在中での出来事です。

たまたま妹の帰りが遅い日でしたが、母の容態も大分良くなっていたので、仕事に出る準備を済ませて母に声をかけました。

しかし、応答がなくやけに静かで様子がおかしい。
(この頃、返事ができる位には言葉も回復していました)

...まさか!!?

慌てて家中を探すと、バスルームの前で痙攣(けいれん)しながら、泡を吹いて倒れている母がいました。

一瞬動揺したものの、すぐに救急車を呼び病院へ同行。

都心近くで仕事をしている父にも連絡を入れ、僕は仕事を休みそのまま付き添うことに。

...1時間近く経過し不安がよぎりましたが、待合室に現れた先生の言葉を聞いて一安心。

幸い、早期発見により母は大事に至らず、その日の内に帰れることとなりました。

しかし、その後に別の第2波がやって来ました。

病院に、血だらけの服を着た父が現れたのです。。

一瞬戸惑いましたが、何事もなかったかの様に僕に母の安否確認をして来たので...

更に戸惑いました(笑)

話を聞けば、珍しく動揺していたみたいで、運転中に高速道路でガードレールに突っ込み、エアバックが飛び出して大量の鼻血が...とのことでした。(ドン引き)

ただ、車はべっこり逝ったものの、自爆だし車は動くし、今はそれどころじゃないからそのまま来た!...って、それって警察入れて事故処理せなあかん話じゃ。。

とりあえず、父も鼻血以外は大丈夫!と元気だったので(色々大丈夫じゃないが)、ひとまず事なきを得ました。

・・・という訳で、1日の中で痙攣した母親と、血だらけの父親を見るとは思ってもいませんでした(笑)

僕も人から『普通じゃない』と言われることが多い人生ですが、こんな父を見て育つと、価値観おかしくなって当然だと思います(笑)

それにしても、母が再び倒れたこの日、妹がおらず地元不在の日であったり、少しでも早めに仕事に出ていたらと思うと。。

自分がいて良かったと、心底思いました。

5.親孝行したい時に親は無し

僕の場合、後悔せずに済んだのは、たまたま運が良かっただけなのかもしれません。

また、後悔しない様に『親が喜んでくれそうなこと』や『親に協力できそうなこと』は、今回の件をきっかけに意識してする様になりました。

些細なことでも良いと思うんです。

『子供の成長が何よりもの親孝行』

子の立場でありながら、この言葉が理解できている方は、少なくとも『親孝行しなきゃ』と思っている方ではないでしょうか?

また、親の立場でありながら、この言葉を理解した上で何もしていない方は、子供が自分の為に何かしてくれた時のことを思い浮かべてください。

その気持ちだけでも嬉しいはずです。

小さなことでも、些細なことでも、まずはやってみませんか?

きっとお互いに、幸せな気持ちになれると思いますよ。

皆さんの毎日が、心豊かなものになります様に。

それ以降、母の容態は悪化することなく、着実に回復に向かいました。
脳梗塞になる前は、和太鼓のチームに所属し、老人ホームや施設を回って演奏しては、多くの人達に喜んでもらうことが大好きな母でした。
病気後は和太鼓を辞め、今も言語障害は残っていますが、大分喋れる様になり元気に過ごしています。
個人的には、再び和太鼓を叩く元気な母の姿が見れることを願っています。
また、当時母が倒れた時の想いは『PRAYER ~もう一度笑顔で~』という曲にしました。
今は歌うことはなく、リリースもしていません。
歌詞だけは残っているので、ご興味ある方はこちらをご覧ください。


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