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新年の挨拶に代えて/誰がために僕は書く

 年が明けた。別に日付がちょこんと変わったところで、我らが地球がお天道さんの周りを一周したところでめでたいこともなかろうが、まあ何かと厳しいこの賑やかに荒廃した世界で無事に1年サヴァイヴできたことを(ヒートアイランドの灼熱を知らぬ歴史的な観点で見れば)生命が最もサヴァイヴに適さない真冬の極寒中祝い合うというのもわからないでもない。僕自身ヨレヨレの千鳥足ながらなんとか一年無病息災無事に過ごし、そもそも2020年夏のトウキョウ・クソッタレ・オリンピック後には取り壊される予定であったTKA4も青息吐息が常といった具合でありながら静かに環七の喧騒に耐えている。まずもってめでたい。いや、まずもってありがたい、と言うべきだろう。本来ならば年の瀬に一年を振り返り感謝を述べるべきであったがそこはヒネクレ者、今年1年分の感謝を先に述べるくらいでなければ天邪鬼の看板は錆びれるがままである。
 .......ああ!なんという理屈っぽさ!なんというヒネクレもの!明けましておめでとう、去年はみんなありがとう、今年もよろしくね。こんなもん御託を並べ立てずにサラッと書けばいいじゃないか!我ながら度し難いにもほどがある。おまけにヒネクレ具合までなんとか後塵を拝すまいと上記冒頭部分を一度全て削除したものの、残念ながら僕には他人とは異なる観点を得る上等な独創性やセンスはないのであえてクリシェなヒネクレを並び立てる方にヒネクレてみている。「私はヒネクレものである」。ヒネクレものが一生懸命ヒネクレようとすれば、自分はヒネクレものだと言いながら素直なことを言い出すのが嘘つきならぬヒネクレのパラドックスというやつだろうか。1つ確実なのは、新年早々昼下がりのコーヒーを少しばかり濃くしすぎた、ということだ。

 さて、新年である。鬼を笑かすには少し遅すぎるので1年の計を束の間の正月休みに求めるなら、当然というかなんというかこのブログ、引いては物書きという一世一代の大チャレンジを避けては通れないだろう。以前にも書いたようにこのnoteを始めたきっかけはある雑誌から執筆依頼があったことだ。自分の書いた文章が本屋に並び、不特定多数の目に触れるチャンスは滅多にないだろう。そして自分のプロフィールはどうやら好き勝手に書けるらしい。ならば何かしらの宣伝に使ってみよう。それなら宣伝する対象がなければ。空っぽの商品棚だけを宣伝するわけにはいかないので、何かしかの商品を形だけでも陳列しておこう。とある意味順序が逆転して始めたものであるので、あまり来年こそは!という気負いがあったわけではない。
 しかし義務感とは恐ろしいものだ。誰に頼まれて書いているわけでもないのに、この義務感が僕をキーボードから遠ざける。あるいは誰に頼まれて書いているわけでもないからこそ、動機と目的が自分の中で完結してしまっているからこそ、いよいよ書くことに見出す意義が曖昧となってしまった。
 『霧島、部活やめるってよ』という映画がある。高校内の一種のヒエラルキーをモチーフに実存主義を描き出した傑作と呼ばれている。僕も(ゾンビ映画が好きで大学時代から遊びで映画を撮っていることもあり)上映当時は喝采を送った。しかし。周囲の声を聞くにつけ、映画部員たちの「勝利」を観るにつけ、ローエングリンに胸を熱くするにつけ、どうしても感じてしまうのだ。フェアじゃないなあ、と。
 高校時代はもちろん、現在でも僕はイケてるヒエラルキーのトップ集団でもなく、さりとて「それ」を見つけた者でもない。映画の背景に霞む名もなきモブ集団の一員だ。いや、製作陣もほとんどの観衆は僕と同じような人間であることを前提に作っていると思う。だからあれは極端な人間を両側に配置して対比させて見せた一種のファンタジーなのだ。どちらかに感情移入して観ることができる人間がいるならそいつは恐ろしいほどの幸運な人だ(映画を観る際の登場人物への感情移入とはちょいと違う意味で言ってます。念のため)。

 僕はなんのためにこんな文章を書いているのだろうか。やりたいこと、好きなことだから?果たして本当に?
 好きの証明の呪縛。何かを好きであるということは、コレクションや知識量を通して証明しなければいけない。好きなんだったらこれだけ知ってるよね?これを持ってないんじゃ本当に好きとは言えないなあ。これだけグッズを集めるくらい好きなんです!先日、Facebook上だったか、ある動画を観た。MetallicaのTシャツを着た女の子がインターネットから攻撃を受けた。本当にMetallica好きなの?ファッションだけで着てるんでしょ?ファンでもないくせに。それに対し彼女は、見事にMetallicaの曲をギターで弾いて見せた。インターネットは喝采を送った。僕も正直胸がスッとした。しかし同時に、別にギターで弾いて見せなくてもいいんじゃないか?好きだということを赤の他人に証明する義務はないんじゃないか?好きなものは好き、で自己完結していいんじゃないか?とも思ったのだ。白状すれば僕だって街でおよそパンクを聴きそうにない見た目の人がBlack FlagのTシャツを着ているのを見れば少し眉を潜める嫌いがあった。その度にいやいや、見かけで判断してはいけないぞ、本当はパンクが大好きな同志なのかもしれないと自省をしていたが、それすらもはやおこがましい。例えバンドを知らずとも、本来当人が着たくて着ているものなら僕の知ったことではないではないか。
 この誰かの好きを査定する目は、自分に対して最も厳しく向けられる。僕は胸を張って言えるほど何かを好きだろうか。僕は自信を持って言えるほど書くことが好きだろうか。本当に書くことが好きなら、なぜ毎日書かない?本当に書くことで好きが完結しているなら、なぜ誰かの目に触れるようにする?僕は何を待っている?何を望んでいる?
 誰かのために何かをするのが、ほぼ唯一の自己存在認識となってきた。いや、他者からの感謝や承認が僕の存在意義を相対化していた、ということを否定はしないが、単純に他人の役に立つことが好きなのだ。それが21世紀の家族たる友人たち、我が部族のためであるなら尚更だ。利他主義、博愛主義ではない。友人を助けるのが好き、友人を助ける自分が好き、という極めて利己主義的な利他行為だ。そこに好きなことを証明しなければならない呪縛が相まって、僕は待ち伏せ型狩猟動物が獲物を待つように友人からの助けの声を待ち続ける。

 そんなわけで、ここに来て自分が好きなことを自分のためだけにやる、なんてことが新鮮すぎて、僕は困惑している。

 .......いやいや、まだ大して書いていないくせに何を言うか、である。この文章を入れてもまだたった4つしか記事を書いていない。まだまだ、これからだ。そもそもこんな根暗で内省的な文章をネチネチ書くつもりではなかった。もっとカロヤカにイイカゲンでクダラナイ文章を並び立てるはずだったではないか。新年早々幸先が悪いにもほどがある。書くの書かないの好きの嫌いのと眉根を寄せた文章で読者同志諸君をイライラさせるのはこれくらいにして、次回からはもう少しアッカンベーと読者同志諸君をイライラさせるようにしよう。
 とりあえず、例の雑誌を宣伝しておこう。「情況」というまあ言ってしまえば左翼雑誌で、1月18日に発売予定だ。別に僕の原稿料が変わるわけでもないが僕みたいな連中に記事を書かせてくれる雑誌は貴重なので、ちょっとばかりポケットに余裕がある同志諸君は手にとってもらえるとありがたい。18日までにここに記事を書くかどうかは、5日に出る先月の給料の額面とビール代を見比べて考えることにする。

 同志諸君。今年も活字中毒に乾杯!

終わり。

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