BeRealをする女子大生を眺めて

スマホが普及し、全ての年代でSNSやLINE等が扱われるようになり、ニュースで"LINEのママ友グループ"やFacebook同窓会が話題になっていた頃、
僕の母はしきりに「若い頃にSNSが無くてよかった~!」と心の底からホっとするようにボヤいていた。

「50歳になりたくない~~~!」と言いながらも「でもこれ見ると自分が生まれた時代より後には生まれたくなかったかもねえ」と渋々ながら老いと向き合っていたほどだ。

その頃の僕はリアルの友人やネットの友人、あらゆる連絡をTwitter上で行っていた。Twitterが生活のインフラとして生活の文脈に組み込まれていたので「ネットがない時代で良かった」なんてことが有り得るのか?と思っていた。

少し話は飛ぶけれど、皆さんは「BeReal」をご存知だろうか?
最近若者に人気なSNSで、1日1回ランダムに通知が送られてきて、通知が来たら2分以内に投稿しなければいけないというものだ。
投稿するチャンスは1日1回だけで、投稿しないとフォロー&フォロワーの投稿は見られない。

Instagram等と異なり"映え"を狙っていない本当の日常の一コマを見られる!という理由で人気だそうだ。

この話題を最初に見た時、僕は心底「若い頃に無くてよかったー!!!」と思った。

通知が届いてから2分以内に投稿しなければならない……
なんだそれ、モバゲーのデスゲーム小説の設定かよ。

現代に要求される「リアルタイム性」が恐ろしい、時間を共有していないといけない圧迫感がいよいよ生活圏の2分以内までに迫ってきたのか、と。

人間がスマホという道具を利用しているのではなく、スマホが用意したガラス貼りの部屋で人間が生活していて、それをスマホが観察しているのではないかと思った。

自分が投稿を見たいと思う人が、
例えばそれが、好きな人だったら、同じグループの友達だったら、部活の先輩だったら、バイト先の気になる人だったら……
2分以内に自分の生活圏から生身の自分を投稿しなければ、その人たちの生活を垣間見ることができないのだ。
自分の投稿を見たいと思う人もまた然り。

そうやって相互にバインドを掛け、相互監視の鎖で縛り付け、現在(いま)に限りなく近い自分を晒さなければ、そこで出来た鎖の輪に入ることができない。

ああ、心底若い頃に無くてよかった、と思う。

僕が学生だった頃、当時はまだガラケーしかなく、中学時代はモバゲーやGREEが盛んで、高校に入ってからはmixiを使ってインターネット上でコミュニケーションを取るようになった。
それでも基本はメールでやり取りをしていた。

メールは好きな時に送って、遅くならない程度に好きな時に返せばよかった。
既読がつくこともないし、生活を携帯に操られるようなことはなかった。

あの頃にはまだ残されていた。待っている時間が。
ずいぶん便利になったけれど、現実の世界とインターネット上の送受信にはある程度の非同時性が許されていた。

そのタイムラグが、現実との非同期性が、非リアルタイム性が無性に恋しくなり「あの頃はよかったなぁ……」と思ってしまうことがある。 
これが、母の言っていた「若い頃にSNSが無くてよかった~!」に近い気持ちなのかもしれない。

BeRealの流行に見るように、今は自分が他人に監視されず、自分も他人を束縛せず、誰とも同期していない時間がどんどん許されなくなってきている所まできてしまっている。

あの頃、mixiを見たい時に開いて、新しいリプトンを飲んだとか、プリを撮っただとか、部活帰りの夕日が綺麗だったとか、いまめっちゃハマってる音楽はこれだとか。
そんな投稿に20文字以内のコメントを書いたり、いいねをつけたり、あの子が書いてくれた紹介文を何度も読み返したり。
それらは、ある程度自分でコントロールの出来る時間だった。

リアルタイムで人と繋がりたいときはSkypeや電話で、そうでない時はメールや簡易なブログのようにmixiを利用していた。
同時性と非同時性を自分でコントロールすることができた。
少なくとも、あくまで利用するのは自分たちで、ネット上のコミュニケーション手段に時間の主導権を握られることはなかった。

これがただの老いに由来する回顧のノスタルジーでエモーショナルなメランコリーならば良かったのだが、ただの「あの頃は良かった」ではなく「今の子たちはなんだか可哀想だな」の領域にまで踏み込んでしまっている。

大学での仕事終わり、帰りのバス待機列で、今までしていた会話を断ち切って、慌てて髪型を整えスマホで自撮りをしだす女子大生たちを見ていると、なんだか、僕もこれ以上後の時代には生まれなくてもよかったかな。
なんて思ってしまう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?