ほぼ無職だけど"なぜ働いていると本を読めなくなるのか"を読んだ。

週1でしか働いてないほぼ無職だけど"なぜ働いていると本を読めなくなるのか"を読んだ。

労働アンチとして、外部からのインプットにより自らの現状を些かでも肯定する材料とする為、あるいは自己肯定感を得られる要素が小さじ1杯分でもないだろうかという非常に浅ましい動機により購入。

さて、タイトルにもある、
「なぜ本が読めなくなるのか」という内容は、主に7章から示される。
本書で繰り返し語られる情報と読書が知識のノイズ性であるならば、冒頭で語ったように僕はこの本に「今日使える、階級を無視した情報」を自己啓発書的メソッドで求めていたわけだ。

この本で描かれている解釈を拝借するのであれば、そういう読み方をするなら、6章まではほぼノイズとなる知識を差し出す本であり、明日使える情報を差し出すタイプの本ではない。

逆に言えば6章までが、"私たちが生きている時代"と異なる1900年代の労働観と読書の歴史の変遷であり、"読書"のノイズとして楽しめた部分とも言える。

現代社会を生きる我々がノイズを徹底的に排除して、"なぜ?"を求めるならば、主に7章以降と「スマホ脳」系列や行動心理学的な本でも読めば良い。

ただ、この本を読んでから改めて考え直すと、思うところがいくつかあったので、現代に求められる教養と、終盤で取り扱われる「半身社会」の実現についていくつか自分の言葉を記しておきたいと思い「なぜ本が読めなくなるのか」の理由について現代の若者(?)なりにいくつかの説を考えてみた。


・教養と修養の違い


現代の教養は修養的である。
例えば、国語の試験で
「この書き出しから始まる作品は何か」
「この作品を書いたのは誰か」を問われるのは修養的である。

本来、教養というものは、夏目漱石が書いた「こころ」を読んで何を感じたか、太宰治の「人間失格」を読んで主人公の葉蔵についてどう思ったかを自分の頭で考え、なんらかの形にしたものであるべきなのだ。

なぜこのファスト教養的な修養が現代に求められるのかについて、自分なりの考えを示していこう。

・タイパ重視時代


教養とは、同じ言語世界や背景を持った人間に通じるコミュニケーションの一種であり、ぶっちゃけ内輪ネタ(ミーム)である。

その人のいる環境、文脈、背景によっては、競馬が教養になることもあるし、オペラが教養になることもあるし、ソシャゲのストーリーが教養になることもある。
場合によってはゲイ向けアダルトビデオのセリフが教養となる場合もある。

しかし、読書に限らずとも、コスパ重視時代を超えてタイパ重視時代とも言われる現代において、時間を使う教養を自分の背景や文脈に組み込むことは非常に難しい。

現代の働く若者にはお金がないが、お金を使う時間はもっとない。
故に消費量と消化速度で気持ちよくなれる、タイパの良いソシャゲに使うお金なら存在する。

本を30ページ読み進める時間があれば、3つのソシャゲでデイリーをこなし、限定イベントストーリーを読み、気に入ったキャラがいればガチャを引く。

そこにお金を費やせば、教養(キャラ)を手に入れることができる。

SNS上、または友人との共通の話題として、爆速の消費期限をした限定イベントストーリー考察や新しいキャラの性能が明日の話の種になり、現代の若者の教養となっているのだ。

それらのストーリーになんらかの考察できる余地があればもっと良い。

本を1冊読んで考察をしている時間がないだけで、何も考えたくないわけではないのだ。
だから爆速で消化でき、考察の余地があるストーリーのほうがより好まれる。

・そもそも古典的教養は必要とされない?
自己防衛に使われる教養

そもそも、2024年、SNSが世界を制する日本の現代社会において、シェイクスピアの詩から台詞を引用できることと、真夏の夜の淫夢の画像に釣られないこと、どちらが上かな?

教養には試金石として機能する役目がある。

例えば、フランス受験のバカロレアでは暗記問題以外に哲学や教養、思考力に関する問題が出題され、これらは家庭が裕福で幼い頃から教育を受けた子供以外には非常に不利であるため、上流階級をふるいにかけるために用いられていたともいう。

SNS時代の現代で生きていくためには、専門的により深い知識を得て発信することよりも、無責任な人間が無責任に発したその場の情報に対して、嘘を嘘と見抜く力が必須となり、それを自分の文脈に組み込むことで情報弱者とふるい落とされることを防ぎ、情報の波に乗れている証左となる。

現代において、シェイクスピアの詩を適切に引用して"おお"と言われて称賛される人がいたとして「溺れた外国人を助ける日本人サーフ系ボディビルダーの画像」「おじさんが木刀で少年を虐待する画像」に釣られるような人間だった場合、知識や教養があるという前項の評価を、正しい情報源にアクセスできないという、後項が覆してしまい情報弱者としてふるい落とされてしまう。

本書でも語られるように速読、情報処理スキル、読書術、ファスト教養の時代において、読書で教養を得る「深い人間」よりも、浅い情報に釣られない「浅い情報に騙されない人間」のほうが、インターネット上でファストに扱われる教養としては重宝されてしまうのだ。

・高度資本主義の元でスマホに勝てるわけがない

本書では主に「花束みたいな恋をした」を例に、パズドラと読書の関係性について取り上げられているが、そもそもスマホには驚異的な依存性があるということだ。

アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』によると
人間の脳は本質的には狩猟採取時代から進化しておらず、新しい情報を得ること自体に、報酬系からドーパミンが出てしまうらしい。

例えば「スマホでTwitterを使い、スワイプをするという動作によって新しい情報を得る」ことによって行動(動作)とそれに対する報酬(情報)を脳が受け取ってしまい、離れる事ができない。

これらは世界中の大企業が研究を重ねて、最もユーザーが熱心に利用するようにデザインされているそうだ。

脳内物質レベルや行動心理学レベルで人間をハックする最新のツールに読書が敵うわけがない。
これは、本書から引用するならばまさに

『そう、もう資本主義は、仕方がないのである。常に資本主義は「全身」を求める』p.255

という奴だ

・「半身社会」を実現するには

最終章では、本を読める社会を実現するにはどうすれば良いか考えようと呼びかけている。

『整理すると、明治~戦後の社会では立身出世という成功に必要なのは、教養や勉強といった社会に関する知識とされていた。しかし現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして排除し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報である情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった』p.240

『だが今後、80年代以前のような「労働のために読書が必要な時代」はもうやってこないだろう』p.241

ここまで分かった上で、踏まえた上で、ノイズを含む読書を余裕を持って楽しむためには、労働(賃労働以外も含む)に対して「全身全霊」で働くことをやめ、半身で働くことのできる「半身社会」を目指すことを提案している。

これは非常に同意できる。時間を使う文化を享受するためには、当然時間が必要なのだ。

そもそも「出自にかかわらず勉強さえすれば成功する」「努力すればその分良くなる」という考えに基づき、立身出世のために読書が必要とされていた時代と、働いても社会保険料と物価は値上がりするばかりで「親ガチャ」という概念が当たり前となっている現代において、明治時代~戦後のような"出世=教養"のための読書という考え方は相性が悪い。

あったとしても、"自己啓発書的=修養"というタイパの良い本の読まれ方、売れ方がするだろう。
(僕はこれに加えて、労働者にもなろう系は読まれる理由として"感情労働パフォーマンス"(感パ)という持論を抱いているが、それは別のどこかで)

本書の最終章は概ね「半身社会を実現するにはどうしたら良いか、みんなで考えよう!」というような感じなのだが、具体例には乏しかったため、少しだけ僕なりの希望を示そう。

・ベーシックインカムを導入せよ!


この言葉を出した途端「財源はどうするんだ!🤬」という話にしたがる人間が多く存在するため、とりあえずはひろゆきでも苫米地でも前澤でも維新の会でも、なんなら給付付き税額控除でも良いので、搾取しすぎた分の金を配って労働時間を減らそうぜという概念として捉えて頂きたい。

これだけ文明が発展してもなお、産業革命以降、労働時間は8時間をベースとしてそれ以上短くなること特にはなかった。

先進国では生産性が上がった分、余暇が増えて労働時間が減ってもおかしくはないはずなのに、そうはならなかった。

市場はさらなる競争を求め、それを消費する余暇の時間さえ与えず、むしろ僅かな余暇から効率的に搾取するためにあらゆる娯楽を生み出し、価値を創作し、さらなる労働を生み出した。

「そんなに消費してほしいなら消費してやるから余計に搾取してる分を分配しろ!」というのがベーシックインカムの考え方だ。

行き過ぎた新自由主義によって、国家よりも強い資金力を持ったグローバル企業が複数存在する時点でおかしい。

今となってはAmazonやらユニクロの倉庫には人間が全然いないと言われている。

グローバル企業たちはとてつもない資金力で研究をし、少人化を図り、極力人間に給料を払わないようにしているにも関わらず「自分の会社の製品は買ってください!」と無茶なことを言っている。

今後は更に自動化・少人化も進み、資本主義の必然的搾取構造はより加速化していくと考えられている。

つまりその分、グローバル大企業たちが「給料を人に払う気がない搾取」をしているわけだ。

これらを正しく徴税し、正しく分配することで結局実現されなかったトリクルダウンではなく、下から支えるように分配しようという制度である。

この制度の良し悪し、実現の可否や実現方法については専門家にでもやらせておくとして、ひとまず本書で述べられている「半身社会」の実現方法の1つとして夢を見ざるを得ない。

たしか古来ギリシアでは労働は賤しい、奴隷のする事とされていて、知的探求に勤しみ、頭を使うことこそ美徳とされていた。

そのような背景を持つ時代に現代にも名が遺る様々な哲学者や科学者が生まれた。

やはりノイズを受け入れ、教養を享受できるくらい余裕のある環境があってこそ、より良いアイデアが生まれ、化学反応が起こるのではないだろうか。

1800年代、イギリスで産業革命によって生産が効率化した際に、「人間の仕事が無くなる!」と機械を破壊するラッダイト運動が発生した。

しかし現在、ここまで生産性が高まって尚人間の仕事が全然無くなっていない。

我々は歴史に学んだ知性と教養ある2024年の人間として、AIや人工知能やロボットにラッダイト運動を仕掛けるなんてことはせず、雇用も生み出さずに「消費はしてくれ!」とそれらを使って搾取の限りを尽くしているグローバル大企業等から本を読めるくらいの余暇と分配を取り戻しても良いのではないだろうか!?

過度な競争をやめろー!

・普通の感想

この本の最後あたりに「それでも働くのは好きだ、それはそれとして労働に全身全霊をかけるのはやめよう」的なことが書かれているのに対し、僕が上に書いたことは要約すると「働きたくない」の6文字で終わりなので、あまり真に受けないでほしい。

超働きたくない。
余裕で親と社会のせいにしたいし、余裕で親ガチャとか言いたい。

「家狭すぎて子ども部屋無かったから子供部屋おじさんにすらなれんかったわw」とか言いたい。

『なぜ正社員でいるためには週5日・1日8時間勤務+残業あり、の時間を求められるのだろう。それは仕事に「全身」を求められていた時代の産物ではないのか。そのぶん、家事に「全身」をささげていた人がいたからできたことではないのか。今の時代に、「半身」――週3日で正社員になることが、なぜ難しいのだろう』p.260

なんて素敵な一文だろうか。

この一文を読んだだけで、この本を買って良かったと思った。
同じこの現代に生き、労働に対してまっとうな意欲を持ち、教養も兼ね備えていながらもこのような"真理"を書き記せるこのひとは、はてさて他にはどんな作品を書いた人なのだろう?

三宅香帆、1994年生まれ・・・?京都大学大学院出身・・・?
同い年・・・?

ウッ……!同い年の人間がこのような本を……?

作者もスピーチから引用していた村上春樹で言うならば、僕は「羊をめぐる冒険」の羊男のように、システムから、高度経済社会から、戦争から逃げるために羊の革を纏って暮らして生きるんだ……誰もが間違いだと理解はしている根源的な悪が遠ざかるまで……
まあ、あらゆるインターネット試金石に釣られないのが取り柄、そういう人生もアリなんじゃないかな。

いいと思う。(よくはない)


 ちなみに
本書で繰り返し扱われる谷崎潤一郎『痴人の愛』は1920年代当時の疲れたサラリーマンに愛された「田舎出身のサラリーマンが都会カフェで一回り年下の美少女と出会う」話らしい。
全くもって現代の言うライトノベル的、さらに言えばなろう系的なあらすじをしている。
僕もぜひ読んでみようと思った。

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