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なぜ努力できる人とそうではない人がいるのか

才能と努力は誰にとっても興味があるテーマだ。まず才能というのは存在する。そして影響はとても大きい。しかしながら才能の影響が軽視されがちで、また努力は自分次第だと思われすぎていると感じる。もちろん競技によって努力の影響が大きいものと小さいものがある。陸上は努力の貢献度は小さい。

あの人は才能を持っているという言葉は真実ではない。『何かに対して才能がある』しかない。どのような環境においても有利に働く特性がないように、ある環境には有利でもある環境では不利になる。2mを超えた身長があればバスケットには有利だが、体操には不利だ。才能はいつも環境を必要とする。

トップ選手は人生において競争が激しくなって来た終盤をよりよく記憶している。前半でふるいにかけられていて、終盤の戦いは全体の上位1%以内のメンバーで行われている。終盤の戦いは技術や努力や工夫がより重要になるが、そもそもその戦いに参加するには最初の選択を生き抜かなければならない。

突き抜けるには繰り返しが必要だが、繰り返しは多くの人にとって辛い。例えば自閉スペクトラム症の特徴として同じ行為を繰り返すことがみられるが、これらはある特定の競技においてはプラスに働く。これを努力という人もいるかもしれないが、専門家から見ると特徴の現れに見える。

またアスリートは刺激に対し依存的になりやすいということが最近言われている。勝敗に対し執着して夢中になる様子を見て、目標を決めて必死に努力することが大事だと周囲はいうかもしれないが、それはある種の依存症かもしれない。実際に私も引退してからしばらく刺激がなく生きてる感じがしなかった。

確かに突き抜けるには誰にも努力は必要だが、それぞれの特徴によって同じ努力でも、必要な意思量が人にとって全く違う。現役時代には競技力を支えたその特徴が、引退した後は適応障害のようになる。ある特徴が環境によって才能になったり努力になったり障害になったりする。

私の母親はこの20年朝食のメニューが変わらない。山に登る時間もコースも決まっている。私も少しその傾向を引き継いでいて、執着するとずっとそれをすることができる。私のその特性のことを見て、努力の人と評した人もいたけれど、本質的には私と母親は変わらないと思う。

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