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怒る指導者

なぜスポーツの現場で指導者は怒るのか。人間がなぜ怒るのかを考えてみると、思うようにならないという能動的な怒り、攻撃されていることへの防御としての怒り、があるように思う。ここに先生と生徒という関係性が入り、スポーツ現場で怒る文化が生まれているのではないか。

まず日本のスポーツ現場の背景に三つの特殊性がある。一人で大人数の生徒を見ることが多いこと。技能向上と勝利が求められているということ。各セクションが短期間だということ。短期間で大人数の技能を引き上げるなら、強制的にやらざるを得ない状況を作るのは確かに短期的に効果がある。

我々の社会には、生徒が規律を持って動いている状態を作るのが良い指導であり、生徒を統率できないのはよくない指導者だという思い込みがあるように思う。その結果、指導者は生徒を思い通りに統率しようとし、そのための手法として怒りで強い上下関係を作り、生徒を萎縮させコントロールする。規律がある集団を作るのがいい指導者だという社会の要請に答えている。

もう一つ辛い思いをすると人間は強くなるという考えによって厳しい指導で人を鍛えているという背景もある。しかし、スポーツの現場を経てきた人間として感じるのは、辛い出来事は、自分が主体的にやろうとしている中で起きたものか、ただ降りかかってきたものかで意味が違う。自ら取り組む中の辛さは主体性を強化するが、辛さを押し付ければ萎縮する。主体性は萎縮の中にはなく、主体性なき人間は必ず伸び止まる。

怒りを用いる指導者には恐れがある。もし怒らなければ、力ではなく自分の人格で尊敬を集めることでしかチームをまとめることができないが、そのような影響力が自分にはあるのだろうかという恐れだ。権力は強制できるが、影響力は相手の側に選択権がある。影響力は選ばれないと手に入らない。

二つの異なる指導思想がある。指導者がイメージする姿にチームを近づけていくのか、それとも選手がそうなりたいと思う姿を助けていくのかだ。前者は統率が取れるし綺麗にまとまる。プロに近い。後者は統率は取れないし綺麗ではない。ただ選手には自分がなりたい姿に、自分の力で近づいているという実感がある。

人間は不思議なもので最初は怒りを手法として使っていても、その関係が固定されると怒らない方法でどう付き合っていいか分からなくなる。自分自身も怒りに巻き取られ、コントロールされる。主体性とは自在であるということで、自在であるということは一つの感情に支配されないことだ。

怒りで人をコントロールする中で育った人間は、怒りで人をコントロールしようとする。そして怒りでしか人をコントロールできない人間は自分もまた怒りにコントロールされている。怒り続ける指導者はそのような自分の姿が見えていないから、今日も怒ることができる。

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