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恐れと危険と雇用の解放

終身雇用が実質的に終わりを告げた。私より下の世代はもう誰も生涯一つの会社にい続けられるとは思っていない。そうなると転職や、副業が当たり前になり、人生で給与が上下することも頻繁に出てくる。じわじわと安定的に給与が上がっていくことを前提にした人生設計が意味をなさなくなる。

競技者は収入が乱高下するし、プロであれば引退して新しいキャリアを作らなければならない。現役時代の終盤は自分が社会でやっていけるかとても不安だった。けれども実際に引退してみるとなんとかなる。そもそも恐れていたことの正体は、だいたい大したことではなかった。

その体験を通じて学んだのは、恐れは危険と同じではないということだ。危険なことは本当に危ないが、大体人間はその数倍の範囲を恐れている。特に想像力が豊かで人生経験が少ない人間は、わからないという理由で恐れる。正確に描写すると”知らない”だが、本人の中で”怖い”に変換されている。

この体験をした人はいつも、大丈夫なんとかなる恐れずに一歩踏み出してという。しかし、踏み出す側は怖い。なぜならばこの危険と恐れは違うことの理解は、極めて主観的なものであり体験以外では理解ができない。体験すれば言わずともわかる。体験しなければやってみるまでわからない。

自由自在に人生を生きるには、危険なエリアとそれ以外のエリアがわかることが必要になる。恐れが大きければ制限された中でしか生きられない。適切に恐れる為には一歩ずつ恐れに踏み込んで境目を明らかにしなければならない。この一歩踏み出す瞬間のことを私たちは挑戦と呼んでいる。

恐れる人間は、期待値が高い。失いたくないものが多いとも言える。社会的に力を持つ自分、好きなものを変える自分、友人がいる自分、こう見られていたい自分。本当に自分にとって大事なものもあるが、そう思い込んでいるだけのものもある。大事なものを決める価値観も社会の影響を受けている。

表面的な恐れは、一歩踏み出せないなどだが、一枚皮を剥ぐとむしろ自分と向き合うことが怖くてひたすらに動いてひたすらに人といるということも起こり得る。確かに世間も怖いが、最も怖いのは本当の自分と向き合ってしまうことだ。恐れているのは他ならぬ自分の心だ。

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