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日本人が非合理的な選択をする理由

私たちは時々集団として非合理的な選択をすることがあります。特に、得るものも失うものあって、それらを天秤にかけるという選択をすることがとても苦手です。物凄く単純化した例を出します。ある病気が流行り普通にしていれば病が原因で月平均で100人死んでいます。ところが注射が開発され、これを打つと打った瞬間に副作用で100人あたり2,3人は死ぬけれど、月平均の病を原因とする死者は80人以下に抑えられる。では注射を打つかどうかという選択が苦手です。合理的に考えれば死者を減らす人道的な選択なのですが、注射そのもので死ぬことへの抵抗感が強くなり、むしろ注射を打つことの方を嫌悪するようなことが起きます。

私の分析では日本人は、何もしなくて失われるものよりも何かをして失われるものを大きく見積もりがちだからだと思っています。通常の営みで失われるものは仕方がないと諦めていて、新しく何かをして失うものは許容できない。裏を返すと、日常のルーティーンに組み込まれたものを極端に受け入れ過ぎてしまうことが原因ではないかと思います。何か新しいことをする人を批判するメカニズムも、将来的には衰退するであろう産業で何もできずにずるずる衰退してしまうのもこれが背景にあるのではないでしょうか。犠牲を受け入れて打って出ることができないのだと思います。

全てのリソースには限界があります。 限界があるという事は配分するバランスを考えなければならないということです。 例えば子供たちの教育を考えるともっと教員の数を増やし質を高め子供たちにデジタルデバイスを提供し、より良い教育を促すことが考えられます。 一方で医療でももっと予算があれば本来救えるはずだった命を救うことも可能でしょう。 国が他国に脅かされる危険もありますので防衛費用も必要です。格差が広がる中、格差を固定しないための支援も、社会保障費も必要です。他国に目を向ければ貧しい国の家庭を支援することも必要です。けれども予算には限界があります。

予算をバランスさせるということは日常的に私たちは何かを得るために何かを犠牲にしているということです。ところが不思議なことに一旦予算が決まり日常が始まりだすと、だんだんと犠牲は「しょうがないよね」という言葉で受け入れられていきます。

ロジスティックスの議論も、限界の概念がなければ始まりません。限界とは気合を入れても根性を入れても増えないものは増えないと考えることです。兵站が限られているから、戦略が生まれるわけですが、兵站を増やしたり減らしたり勝手に頭の中でやって仕舞えば戦略が成り立ちません。だから配分の発想が出てきます。厄介なことに日本人は本当に個人の我慢でこの限界の概念を少し引き伸ばしてしまうことがあります。この成功体験から、まるで予備タンクのように、いざとなったら個人に頑張ってもらって限界の概念を引き伸ばすという作戦が取られがちです。しかしこれにもやはり限界があります。

どうすればここを脱することができるのか。まず限界の概念があり、何が大事かの軸を決められ、利得と犠牲が計算され、それによって配分を行うということだと思います。一番大事なことは何が大事かという議論で、これが共同体で共有する社会正義や、価値観の議論になります。優秀な人たちの議論を見ていると細部はともあれ何を大事にする社会が望ましいかに終着することが多いです。
今まで行ってきたことも新しく始められることも平等に考えることも大事です。つまり、昨日までやってきたことと今からやることは同じ選択であり、昨日やったから今日もやるということも一つの選択だときちんと理解するということだと思います。

特に日本では「命」「絆」「気持ち/思い」という単語が出てくると、合理的に考えること自体が心ない冷たい人間だというレッテルを貼られがちになります。ですから、このような単語が出ると多くの人は議論の立場に立つことを敬遠するようになり、結果として集団の感情が場を支配するようになります。※命は本当に最優先なのか

そして何より大切なのは関係する全員がこの限界の概念をよく理解すること、普段失われているものと得ているもの、新しく始めることで失われるものと得るものを、平等に考えられるようになることだと思います。リーダーが合理的な選択をするためには、(それなりに)関係者もそれが理解できないといけません。そうでなければ、結局リーダーにとって最も合理的な選択は何もしないになってしまうからです。

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