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命は本当に最優先なのか

「命を最優先に」という言葉には確かにそうだとしか言えない説得力があります。しかし、命というのはとても抽象的な言葉ですから、よくその意味を考えてみなければなりません。私たちが本当に最優先しているものはなんなのでしょうか。

例えば90歳のおじいちゃんが半年の余命宣告をされているとします。延命治療を行えば余命があと一年延びます。一年半です。しかし延命治療を行えば家族と会話をすることは難しくなります。生物学的な命が命の定義だとするならば、延命することが命を最優先することになります。しかしそんな選択を皆がするとは限りません。人は命と同じぐらい生き方も大切にしているからです。短い時間でいいから最後は家族と話をしながら過ごしたいと考えおじいちゃんも家族も延命を避け、それを医療機関も社会も許容するのならば少なくとも「生物学的な命は優先されず別の何かが優先された」ということになります。私はその別の何かとは「生き方」だと思います。

例えば車は事故死する確率がありますし、飛行機も電車も完全に安全ではありません。喫煙も肺がんのリスクがあります。学校に行けばいじめがあり、若年層の自殺もこの国では多いです。一方、家にいても虐待死もあります。私たちは意識せずとも常に命をリスクに晒して利便性を得ています。

思考実験ですができるだけ命を危険に晒さないためにはどうすればいいでしょうか。外は危険ですからできるだけ外に出ないようにします。車も電車も事故の可能性があります。運動は必要ですから運動をし、適切な食事を適切なだけ取ります。心配はストレスにつながるのであまり余計な情報は入れない方がいいでしょう。仕事も人間関係が大変ですからなるべく好きな人とだけ関われる仕事を選びます。現代社会では病死が多いですから、何かあっても大丈夫なように病院の近くに住み、健康に関する情報を日々手に入れる生活を送ります。知らない土地へ行く旅行はリスクが大きいですから避けます。

確かに命を失う確率は低くなるかもしれませんが、しかしこれでは死なないために生きるだけで、何の為に生きているかがよくわかりません。私たちははたしてこのような生き方をしたいのかを自分に問いかけるとよくわかります。よく「命(生物学的な)vs何か」という対比がされますが、実際のところ「命vs生き方」のバランスを重要としているのではないでしょうか。だから少なくとも日常よりは危険がある旅行にリスクをとって出かけたりするわけです。「命を最優先」をもう少し実際に寄せて言い換えるなら、「人間らしい生き方ができそれぞれが自分らしい人生を表現し社会と個人のバランスが取れる範囲での命の最優先」だと思います。

リソースは有限です。先に述べた生き方の定義に従ったとしても私たちは選択をしなければなりません。何にリソースを割り振り、何を得て何を犠牲にするかです。そうなると結局私たちは命の軽重について考えざるを得なくなります。例えば危機時に子供を逃して命を守り大人が犠牲になるという場面は過去にもありました。子供は力がないという理由もあるでしょうが、共同体にとって未来だから優先されるのだと思います。子供を優先するということは命に軽重をつけたということでもあります。リソースが無限であれば選択しなくても良いですが、無限なリソースなどありません。制限があれば割り振りがあり割り振りがあるということは、何かを得て何かを犠牲にするということです。

命の軽重まではいかなくても、命という単語を出した途端それについて議論すること自体心がない人間だと反論されるならば、議論自体が成立しなくなります。そうなると「命をリスクに晒してもこう生きたい」という生き方の議論ができなくなります。命は違う言い方をすると残り時間です。志や夢とはその残り時間をあるテーマに使うということです。ですから、死生感がなくただ生きていればいいと考えるならば志も夢も生まれません。

まとめますと、私の考えは命より生き方を私たちは「すでに」優先していて、ただ生きているだけでは人は幸せになれないということです。安全を最優先して育てた子供は脆くなり、結果として社会で力強く生きていけないという大きなリスクを負わせることになります。もちろん通常は命を最優先としておいて問題がないのですが、いざ大病をしたり、人生で大きな選択を迫られる時、この命を使って自分は何をしたいのかという問いと向き合わざるを得ないのではないでしょうか。そして、平時より死生観をもって生きていることが、自分の人生をより幸せにし、社会をよりよくすることなのだと私は思います。


日本人が非合理な選択をする理由

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