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安全安心とルールと規制と自己責任

日本の産業が硬直化するプロセスを考えてみた。まず新しい産業やサービスが起こった時には、玉石混合の状態にある。ひどいサービスもあるだろう。そのうちに、クレームを受けてこれじゃあいかんだろうと徐々に一定の基準を満たさなければならないというルールが作られ始める。

ルールが生まれてしばらくすると淘汰が進み、安定的に定着し、それで生活する人々の営みが生まれる。次第に最初は安心安全のためのルールだったものが、新規参入を拒むことに便利な壁になっていく。ルールは規制になっていき、産業が閉じられ、競争にさらされないので競争力が緩やかに減少する。

そして徐々に産業が衰退していくが、大いに産業が栄えた時代の人たちが引退するまでは、なんとか規制を残してやっていけるように頑張る。この必要だったルールが新規参入を阻むための規制になっていく時に、それを打ち破るドライブが自己責任感とルールに対して態度になるように思う。

『提供者は安全を担保する努力はするけれども、新しくやることに完璧はないから、自分で納得してやったことは自分で責任をとりましょうね』という前提があると、人は新しいことを始める。ところが『何が起きても提供者が全ての責任を負いましょうね』という姿勢だと提供者はルールの範囲でしか動かない。サービスを受ける側がどちら側に立っているかによって、サービスの提供側のチャレンジ具合は変わる。

またルールは権力を持つ側の力の源泉でもある。ルールがあるからお願いされるし、ルールを作ってくれとお願いもされる。お願いされる側は力を持つ。正しく使われることも多いが、既に作られたルールが残る合理的な理由がなくなってもそれを守る場合は、大方それで食っている人がいる。

この閉塞感を打破するには、自分で選び自分で責任を取る経験を皆がすることに尽きると思う。実は人生で一度も自分の意思で選択をした自信がない人は一定数いる。ここまでがんばれば、次はここ、その次はここと、すごろくのように自動的に今いるところまできた。選んだように見えて提供された選択を受け入れただけだった。

自分で選び、結果の責任を自分で引き受けるという経験を皆がすれば、これは安全安心だけれど意外性はない、これは意外性はあるけれどどうなるかわからないという、リスクを自分なりに判断できるようになると思う。ともかく自分で考え自分で選び自分で結果を引き受ける。この繰り返しに尽きる。

遠いようだけれども、自分で選べる人が社会に一定数増えた時、ルールがないところに新しいことが生まれ、閉塞感が打ち破られるように思う。振り返れば日本はいつも、日常の安定が破られルールもへったくれもなくなった混沌とした中で、新しいリーダーや産業が生まれてきた。

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