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洞察力を考察する

通常とは違う状況ではゲームのルールが変わる。しかし、スポーツのようにルールがこう変わりましたと誰かが宣言してくれるわけではない。一見変化はゆったりとして見えるが、実際は水面下で激しく動いていて、表面化した時にはもう勝負がついている。次の一丁目一番地が見える人と見えない人がいる。

見えない変化が見える人は洞察力があるとも言える。では洞察力とは何か。なぜ見えない人と見える人がいるのか。私は洞察力とは人が気づいていない関係ないしは法則を発見できる能力だと思う。それそのものは目に入りやすいが、関係は目に見えにくい。

では関係を見るためにはどうしたらいいのか。熟達した指導者は全体を眺めて何か違和感がないか探し、あればそれがなぜかを考える。熟達者の観察は自動化の域まで達しているので、まず見つけそれから説明する。なぜそれがおかしいかを説明できない人すらいる。同じ領域を見続けるとそういう事が起こる。

一方で、社会全体のような複雑系の世界は、難しい。集団の心理や、経済、政治システム、産業構造など影響するものが多すぎて、誰もが経験しているようで多くは経験できない。それでも洞察力がある人とそうではない人がいるのはなぜか。一つには観察時の姿勢による体験の違いがあるのではないか。

洞察の邪魔をするのは偏見とバイアスだ。経験によって洞察は磨かれるが経験は人に偏見をもたらす。洞察力の鋭い人は、老子のようではあるが、赤子になることもできる。パターン認識を繰り返し慣れている自分と、初めてそれを見た時の自分を、入れ替えする姿勢とも言える。

大人は体験をした時、過去の体験で似ているどれかの箱に入れようとする。子供は箱がないから体験が体験のまま入り、後ほど分類する。この最初からそれを分類するつもりで体験する人と、体験して後ほど分類する人では体験の濃さが全く違う。私の言葉で言えば素直な人間は体験も素直に受け止められる。

見えているものを分類しようとする大人は過去の何に似ているかを無意識に探す。これはある個別の対象に対しての観察としては有効だが、全体を眺める複雑系の世界ではバイアスになりやすいと思う。あるがままを見ることができれば、あとでそこに見えない関係を見出すことができる。

閉じられた世界での経験が閉じられた世界の洞察力につながるが、一方それが開かれた世界での偏見にもつながるとしたらとても興味深い。

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