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率直なフィードバックを受け取るために

言わないけれども思っていることで、率直なフィードバックを受け取れるかどうかが勝つためには大事だと書きました。その中で、プライドが高い人は率直なフィードバックを受けられないということを書きましたが、これはいったいどのようなメカニズムなのか考察してみたいと思います。

もちろん個人差も当てはまらない人も一定数いるという前提で大雑把にまとめてご説明します。プライドが高い人は環境に適応しプライドが高くならざるを得なかった背景を持っています。ではどのような環境に適応したのか。それは能力と自分の存在価値が一致した環境に適応したのだと思います。適応した結果、能力が高ければ高いほど自分には価値があり、低ければ低いほど価値がないという外からの評価と自分の価値が一致するという思考モデルが出来上がったのだと思います。

能力と自分の存在価値が一致した環境とは、親も周囲の大人もそう思っている環境のことです。親もまた能力と自分の存在価値が一致している環境で育てられてきたことが多いというのが私の予測です。まず子供にとってみると親の愛情の獲得は生存できるかどうかを左右しますから、親の愛や注目を獲得するために、能力の獲得に躍起になります。そこで成功体験を得ると、能力の獲得は愛されることであり、能力の喪失は愛されないことであるということを学習します。

いやそもそも価値とは他者が決めるものではないかという反論があります。確かに社会においての自分の価値は社会(他者)が決めますが、だからと言って自分にとっての自分の価値まで決められるわけではありません。アートの世界でみんながなんと言おうと私はその絵が好きだということはありえます。同じことで能力が高かろうが低かろうが自分は自分として価値があることはありえます。もう少し正確にいうと、価値のあるなしではなく、自分が自分でいることに対して落ち着いていて心が乱されないということです。

この能力が高かろうが低かろうが自分は自分として価値があることを私たちは自己肯定感と呼んでいるのではないでしょうか。この自己肯定感をうまく獲得できなかった人は、大雑把に言って二つの道をたどります。一つはそのまましゅんとなり生きる力が小さくなっていく道、もう一つは自己の優秀さの証明に躍起になる道です。どちらにもいますが、どちらかというと後者にプライドが高い人が多い印象があります。

プライドの高さはこのように自己肯定感を十分に獲得できなかった人間の防衛策だと私は考えています。自分の能力が低くみられること=自分の存在価値がないというモデルで生きているわけですから、鎧は強固です。プライドが高い人間の奥に、恐れと悲しさが見えるのは自己肯定感を十分に持ち合わせていないことから考えると納得できるのではないかと思います。

こういう話は全て自己肯定感に着地させて説明してしまうようなところがありますが、実際には自己肯定感が十分ではなくてもフィードバックを受け取る技術は獲得可能だと思います。大事な点は二つです。

・ただの技術的な指摘であり、故に改善可能である
・その人から見た役割(仕事上のもの、競技者としてのもの)についての指摘であり私本人への指摘ではない

と分離することができれば問題ありません。言われているのは私ではなく、陸上選手としての私であり、職務を遂行する部下としての私であるわけです。場所が変わり役割が変われば見方も変わるものですから、一部の固定化された関係においてのフィードバックであり自分自身そのものへのフィードバックではないということです。もちろんそうやって切り離すことができるかどうかも余裕の有無と、一定のメタ認知能力に依存するのですが。

一方、フィードバックする側にとって大事なのは安心を与えることです。そのフィードバックをする人が能力と相手の存在価値が一致しないということを信じているかどうかに影響を受けます。次に余裕の有無を見抜くことだと思います。相手の本質的な自己肯定感の程度、そして現在の余裕の有無、さらに過去の経験からトラウマになっている言葉、これらを想像して、フィードバックの強さ、タイミング、フィードバックするときの言葉の選び方を調整します。受け入れなければならない事実は大体簡単なことなのですが、相手がそれを飲み込めるかどうかが成否を決めています。

率直なフィードバックが大事だと書きました。しかし、これが成立するための条件はさまざまにあります。多くは心の問題なので、簡単には仕組みかできず故に人の成長にはこれほど差があるのだと思います。

母性愛と父性愛

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