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広島の平和を問い直す

私は広島の生まれで祖母も被曝をしているから、原爆についてまた平和教育について触れる機会が多かった。平和教育は大人が納得する答えを子供が探り当てるゲームのように感じられて、つまらなかった。ただ、この年になると幼少期の経験からか、平和とは何かについて考えることが増えてきた。

平和な世界をと言うけれども、具体的には平和な状態とはどんな状態か。1940年代のような各国が市民を動員し武力で攻撃し合うような戦争は、あまり見られなくなった。当時の国同士というで言えば現在は平和なのかもしれないが、もっと目に見えない形での紛争や争いが生まれている。

平和とは安定状態のことなのか。例えば戦略論で言えば、パックスアメリカーナ、パックスロマーナのような状態は一定の平和が担保される。ただし一定の不平等は孕むから、それを不満に思いこのバランスを崩したいという考えも生まれる。不平等を崩す取り組みが争いを起こす時それは平和への攻撃なのか。

核は非常に大きな問題であり、今もそうだが、しかし昔と今では状況が変わっている。核以外の脅威がたくさんある。以前の武力は示すことに意味があったが、サイバー攻撃などは隠すことに意味がある。非核は平和への手段であるはずなのに、非核そのものが目的になってしまっていないだろうか。

広島は当事者性にこだわる。私は原爆を語りやすい。それは被曝三世だからだ。広島にもゆかりがなく、被爆者の家族でもない人が原爆を語ることを制限していないだろうか。平和は世界のバランスで保たれるはずなのに、広島以外の人間にとって触ってはならないものにしていないだろうか。

小学生の時に人間というタイトルで作文を書いた。原爆を落としたのも落とされたのも人間であれば、人間というのは如何なる存在か。目の前で平和が良いことだと信じている教師が数十年前に子供達に敵は悪だと教えていた。当時の大人も今も変わらないとしたら、一体人の善とはなんなのか。

広島は平和をもう一段深めるべきではないか。それは平和が絶対善であり、核は絶対悪であるということから離れ、あらゆる議論を許容する上で見つかるのではないかと思う。私は平和を固定化しようとするがあまり争いが生まれているように感じる。

平和とは閾値をこえない揺らぎではないか。

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