没頭体験
私の人生はほぼスポーツと読み書きのみでしたが、この両者の共通点は「没頭」があることです。
そもそもそのような性質があったのだと思います。私の部屋は2階でしたが、2階で本を読んでいて、母親がご飯ができたと下から呼んでも気づかず、耳元で呼ばれてようやく気づくことが子供の頃はよくありました。今も文章を書き始めると同じ状態に入ります。
陸上競技でもそうでした、走りながら自分の動きに集中すると1時間ぐらい周りが見えなくなることがありました。
幾度かの没頭体験を持つと、没頭には深さに違いがあることに気が付きます。ちょっとした集中と、深い集中と、自分と対象のみにどっぷり入り込んでしまう世界はそれぞれ違います。
最も深い段階では自分不在になります。自分というのは、意識が創作したものであって、客観的に見れば自分も環境の一部です。野生で出くわす鹿を見て自然だと感じるように人間の身体も環境の一部です。
本当に没頭すると、「自分がいる」という意識自体がなくなり対象とその行為のみになります。
ちこちゃんがボーっしてんじゃないよと怒りますが、没頭体験を持つと、それ以外の時間は全部ぼーっとしているようにすら感じられます。そのぐらい没頭は濃く、日常は薄い。
陸上競技をやってよかったことはなんですかと聞かれます。一般向けには「自分を扱う技術を手に入れたことです」と答えますが、深く答えてもいい場面では「没頭体験を得たことです」と答えます。
没頭でしか触れない世界があり、出会えない自分がいます。そして没頭体験は幸福を伴います。なぜならば全ての苦しみは「自我」が生み出しており、その自我が瞬間でも喪失するからです。
言語未然の世界、私はそれが西田幾多郎先生のいう「純粋経験」ではないかと思っています。
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