合理的な生き方とはなにか

50代以降の方のランニング技術について語った動画で、「ランニングよりウォーキングの方が健康にいい」というコメントをいただき、思いついたことがあります。ランニングは確かに着地の衝撃が関節を摩耗しますから、健康のためにはウォーキングの方がより合理的です。痩せたいという方にとっては、もし若い年齢であればランニングよりサーキットトレーニングがより合理的です。

しかし、人間は自由な生き方を選ぶことできます。人間は健康でいるためだけに生きているのではありません。また痩せるよりも大事なことがあれば多少太っていたって問題はありません。その人がその人の人生で何を重視しているかがわからなければ最適な運動は導き出せません。これをもう少し抽象的に捉えると、合理性には常に「どこに向けて合理化していくかという軸」が必要であるということです。

ランニングが好きでしょうがない人にとって、ランニングをやめてウォーキングに切り替えることは健康への好影響以上に、生き甲斐を失う悪影響の方が大きいでしょう。つまり人生の幸福最大化に関してはむしろ非合理的であると言えます。

合理的であるということは「軸」に対して最適化することとも言えます。ということはその「軸」が何になるかによって合理的な形は全く変わってきます。ベンサムが「最大多数の最大幸福」が社会の目指すべき形であると言いました。これも一つの「軸」の定義です。「最大多数の最大幸福」を実現するために、たった一人の少年に世の中の不幸を追わせても良いのかという疑問があります。このような問いかけを繰り返しながら私たちは個人の「軸」を合わせていきながら社会の「軸」を作っています。この「軸」は価値観や目指すべき社会とも言われます。

しかし私は突き詰めると「軸」自体を合理的に定義することはできないと思います。藤子不二雄先生が「ミノタウロスの皿」という漫画で、食べられることに喜びを覚える価値観に支配された世界に人間が迷い込むと何が起きるのかを描いています。話はできてもその「軸」の根本が違えば着地点が全く違ってしまうという良い例です。この「軸」は言って仕舞えば「快、不快」「好き、嫌い」の世界です。合理的に考えることと何が好きかを見つけることは質的に違います。好きには根拠がありません。その方がいいじゃないかという世界です。「正義」はその方がいいじゃないかをまとめたものだと考えています。

起業家の世界では創業者タイプと経営者タイプが違うと言われます。0-1と1-100とも言えるかもしれません。これは要するに「軸」を見つけ定義する能力と、合理性を追求する能力が違うのだと思います。

さてウォーキングとランニングのどちらがいいのかは、その人がどう生きていきたいかによって決まります。合理的に考えることに慣れている人にとって難しいのは「自分は一体何が好きなのか」「どんな人生を生きていきたいか」を決めることです。それがない人にとっての合理化は、自然と社会が決めた「軸」に最適化することになります。平時は幸せな生き方でもありますが、混乱の時期には「社会の合理的な姿」が揺らぎ「自分にとっての合理的な姿」つまり「軸」によって判断することを求められ、悩みます。

好きはとても非合理な感情です。好きに身を委ねるということは「非合理」を受け入れるということだと思います。

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