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哲学的であること、考えすぎていること

哲学的であるということと、考えすぎているということの境目はどこにあるのでしょうか。前者は深くなっていきますが、後者はこじれていきます。哲学的であれば何かを理解するために考えますが、考え過ぎていれば悩むために考えます。決めようとせず考え続けることに心地よさを覚えるかどうか。疑問に興奮する人間は哲学的です。

考えすぎている人は疑問が投げかけられた時に浮かない表情をします。疑問に対しおもしろいですねという答えは返しません。いや、でもと繰り返します。なぜならば考え過ぎている人は、本当の意味では理解することを目指していません。堂々巡りの状態に居続けようとするので、核心をついてはならないのです。

もちろん本当に突き抜けるような哲学者は、そこに命をかけざるをえないほどの必然性があるのかもしれません。考えたいというよりも考えざるを得ないといったような。しかしそうであったとしても、その人は少なくとも何かを志向しています。何かに向かって考えているわけです。問いに向かって志向しているかに境目があるように思います。

考えすぎる人は、悩んでいるか、思い込んでいるかのどちらかの状態であることが多いと思います。仮置きを嫌い、いきなり答えを掴もうとしているから、答えが出ていない状態は何もないように感じられて辛く感じます。一方で、答えを掴んだと思うとそれは絶対の答えだから信仰するように疑わなくなってしまう。

健全に考えられるかどうかの分岐点として、考えることをやめられるかどうかは大きいのではないでしょうか。うまくいかない時にそれをいったん放り投げることができます。物事を見る上で、価値観や立場を決めてしまえば見方は固定されます。価値観を変え、立場を変えると見方も変わります。柔軟に考えるということは、自分を自在に扱うということで、自在に扱うためには自分と距離を取れなければなりません。健全に考えることは距離の巧みさと関係しています。不健全な人は距離が取れないのです。

考えないこともできるし、考えることもできる。意見と事実を分けることもできるし、一致もできる。盛り上がれるし、眺めることもできる。笑われることもできるし、笑わせることもできる。自分が自在になれば自由が手に入ります。考えすぎる人は自分で自分を固定しています。

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