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原点と一貫性と人生と

なぜ陸上をやったのですが?なぜ世界を目指したのですか?なぜ現在の事業をやっているのですか?と、なぜと質問されることも、することもよくある。理由を答えると聞いた人も、そして自分もすっきり腑に落ちる。人の行動には全て理由があり、そこにはなんらかの一貫性があると人は信じているから。

人間は本当に一貫しているのだろうか。木村敏さんの時間と自己の中で、精神疾患がある方の多くに時間感覚の変異があると書かれている。つまり昨日も私であり、今も私であり、明日も私であるということに実感が持てないと。現実に一貫しているというよりも、一貫していると信じられることで、私を私たらしめている。

実際に自分の身体の細胞を個別に観察すれば数ヶ月すれば入れ替わっている。見た目としては一貫した自分だがそれを構成している細胞は全て以前とは違う。福岡伸一さんはこれを動的平衡と名付けている。しかし、全体を統合し意識する自分は常に一貫した自分がいると感じている。※実際には意識の中枢に関する部分は入れ替わりがないことがわかってきているそうです。窪田さん@ryokubotaありがとうございます。

原点を語れる人は強い。自分自身の人生における体験が強い動機となり、今これをやっていますと言うと、その人がこれをやっている必然性を感じることができる。だから、人を巻き込む必要があるとどうしても原点を聞かれるので、原点を語ることが増える。原点がない人間は居心地の悪さを覚える。なぜじぶんがこれをやらなければならないのかを語りにくくなるからだ。

振り返れば陸上を始めたことに大した理由なんてなかった。足が速く、近所に陸上クラブがあり、姉がたまたま通った。行ってみたらどうもこのまま走ると自分にとっていいことがありそうだと夢中になった。世界を目指したのも同じ理由で、誰もやったことがないことをやってみたかっただけだ。

アスリートの講演や取材をよく観察していると、原点が違う文脈になっていくことがある。出来事は単体で存在するのではなく文脈とともに評価される。その文脈が人生で変わるなら当然原点の捉え方も変わっていく。過去は変わらないが過去の意味は変わる。

私自身の人生は一貫しているのではなく、常に一貫させようと努力しているのに近かった。あの時の決断と今の決断の共通点を探し、昔ああ言ったのだから今はどう言うべきかを考えていた。しかし、ある日から一貫させることができなくなった。何故ならいくら考えても理由がなかったからだ。正直に言えば、そこに山があったから登っただけだ。

理由なんて後付けでよく、最後までなくてもいい。一貫していなくてもいい。人生は自由であり、自分は自在である。最後にあの人はきっとこれがやりたかったんだと人は語るかもしれないが、本当のところなんてわからないし本当なんてない。今ここの自分の心の赴くままに人生を冒険するのだ。冒険録は、過ぎた後にしか書けない。

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