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イノベーションと我慢

我慢しないという文章に対し「誰かがやらなきゃいけないこともある」というご指摘をいただきました。確かに「誰もが我慢せず好きなことをやったらどうなってしまうのか、社会が回らないのではないか」という疑問が浮かびます。それでは実際にそうしてみると何が起きるか考えてみたいと思います。まず、私たちは三つのルールに縛られた社会に生きています。

①社会には法がある
②マッチングは相手に選ばれる必要がある
③需給が崩れれば価格や技術で調整される

です。

まず我慢しなくて好きなことをやったとしても、誰かに危害を加えるような社会の秩序を大きく乱すような行為は違法とされています。ですから、あくまで我慢しないといっても一定の社会規範の中で好きにやると言うことになるでしょう。その上で誰もやりたくない仕事を(そんなものがあるとして)皆が辞めるとした場合どうなるでしょうか。おそらく誰かが来てくれるまで賃金を上げたり、または機械化を図ったりして調整が図られるのだと思います。

例えばスポーツの協会運営の人手が足りなくて大変だという声を聞きますが、背景を調べると大会登録費用が銀行への振り込みで、かつ大会登録がFAXで、その処理作業に時間がかかるということがあります。しかも多くの場合ボランティアで活動が行われています。人の介在を0にはできないでしょうし、誰かは支える必要があるのだと思いますが、現状のまま皆が我慢をしてしまうと既存の非効率なシステムを継続することになり、顧客にとっても働く側にとってもいいことはありません。もうできません、我慢しません、とギブアップすると、不必要な作業を省きテクノロジーを介在させ効率化を図ろうとする圧力が生まれます。全自動洗濯機が生まれる前は洗濯に1日2時間かかりきりだったそうです。

仮に我慢をやめて好きに生きたとしても、厳しさはさほど変わりません。厳しさの質、つまり我慢の質(参照-我慢には二種類ある)が変わるだけです。そもそも仕事とは顧客に価値を提供することなので顧客が自分を選んでくれなければ仕事にはなりません。集団として顧客に価値を提供している企業にも、選ばれなければ所属することもできません。つまり、好きなことをしたくても多くの場合「相手に選ばれなければ」ならず、結局競争はあり(むしろもっと激しいと思いますが)能力開発は求められます。私はこの能力開発にかかるコストが努力だと思えば大変だけど、夢中だと思えばそうでもなくて、だからこそ好きなことをやるのは良い戦い方だと考えています。

名著「失敗の本質」でインパール作戦について言及されている部分があります。作戦を立案するにあたりどうしても兵站が足りないということが判明するわけですが、すでに作戦が決められているので「現地調達」という言葉でごまかされます。これは要するに準備した以上の兵站が必要になった場合「それぞれの部隊、個人個人の努力でなんとかしてね」ということです。私はこの「現地調達」が現在の「我慢」にあたるのではないかと考えています。我慢が期待できるから無理をした作戦を実行することができます。我慢しないなら、やるべきところにリソースを集中させるしかなくなります。

我慢をしない生き方を皆がし始めた時に現れる負の側面は、人がやっていることを機械に置き換えるインセンティブが生まれるということです。人がやらなくていい領域が大きくなるようなイノベーションが生まれ、人がやっていることを機械が代替するようになります。職を失う人も出てきて社会と個人にダメージを与えることになりますが、それでも長い目で見るとイノベーションが起きた方がいいし、テクノロジーを活用した社会の方が幸福な社会になると私は考えています。

もちろんそれでも誰かがやらなければならないことはあると思います。本当に余人を持って代え難いこともあります。それでも日本社会には無数の無駄にコストのかかる手作業が残っていて、先ほどのスポーツ協会の例のように「我慢して続けないと全部崩れてしまう」という発想でいるとデジタル化のスピードを抑えてしまうことになります。個人としては本当に必要なことはきっとカバーされるはずだぐらいの気持ちで「我慢しない生き方」をすることが社会を推進すると私は考えています。

繰り返しになりますが好きに生きていくためには条件が必要で、誰もがそんな条件下で生きているわけではないので、社会から取りこぼされる人を社会に内包しなおし、サポートするために社会保障などの仕組みはとても重要です。その上で自己制御し我慢しすぎることなく、好きに生きていく人を増やした方が我が国にとっては良いと私は考えています。


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