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我慢には二種類ある

我慢しないということを以前書きましたが、そこで「我慢は大事じゃないか」というご意見をいただきました。我慢しない利点は書きましたが、おっしゃる通り、何かを成し遂げようとすると耐えなければならない局面もあります。我慢した方がいいのかしない方がいいのか。どういう時にした方がいいのか。これらを紐解くには我慢というものを、大きく二つに整理しなければならないと思います。すなわち、受動の我慢と能動の我慢です。

まず受動の我慢です。これは理不尽耐性と言ってもいいと思います。例えば「靴下は白く」などの学校のルールは合理的な理由はおそらくありません。けれどもそのように決まっているから守りましょうということを受け入れて守る事が受動の我慢です。自然災害は人知を越えた如何ともし難い不条理なものですから、このような受動の我慢の性質が効いてきます。日本在住の外国人の方に日本語で印象的な言葉を聞くと今までで一番多かったのは「しょうがない」でした。また個人としては理不尽に感じても集団としては合理性があるということもあり得ますし、短期では理不尽でも長期では合理性があるということもありえます。ただ、多くの場合で理不尽に耐えることは弊害が多いことを後程説明します。

もう一つは能動の我慢です。レジリエンスや粘り強さと言ったりします。夢に向かうことを簡単に分解すると「将来の理想を描き、現在の現実との差異を認識し、理想に近づけるために行動する」ことだと思います。夢に近づくプロセスでは当たり前ですが、たくさんの困難が待ち構えています。この困難に対し、いろんな方法を試しときには耐えなんとか乗り越える事が能動の我慢です。能動の我慢をしなくて良くなる方法は実に簡単で「諦めること」です。希望があるから現実との差異が生まれ、それを改善しようという行動があり、行動によって困難が生じているので、希望さえ持たなければ全ては解消されます。

能動の我慢と受動の我慢の違いは解決を目的とするかどうかです。能動の我慢は最終的に困難の解決を目指すので、我慢しなくていい状態を目指して我慢をしています。一方受動の我慢は、環境の改善に向かって努力するわけではありませんから基本的に我慢をし続けることを前提としています。ゴールがあるのかないのかの違いは大きいです。ゴールがない場合はいちいち心が揺れていたら耐えられないので、本質的に自分の内側に取り込まなければなりません。

起業家やアスリートやアーティストなど何かを生み出す人が、目標に向けては物凄い努力をして粘り強いのに、学校や社会ではうまくいかないという事がよくありますが、これは夢や希望が強すぎて、受動の我慢に極端に弱く、能動の我慢に強いからだと思います。受動の我慢をしても能動の我慢が鍛えられるわけではありません。受動の我慢の最大の弊害は「希望」がなくなることです。本当の自分の想いに気づいて仕舞えば、現状の理不尽さに我慢ができなくなってしまうので、「所詮はこんなものだよ」と「希望」を持たないようにする癖が身についてしまいます。

能動の我慢強さが最も試されるのは夢が破れたときです。夢を達成するために耐えてきたのにそれ自体がなくなってしまった時です。この時に夢を抽象的に捉え新しい夢を描きなおす力が問われ、自分自身と向き合い自分を柔軟に変える力が問われ、自分で自分を癒し立て直す力が問われます。このような能力は知識ではなく体験でしか得られないために決して教える事ができません。受動の我慢は押し付ける事ができますが、能動の我慢はその人がそうしたくなければ成立しないために押し付ける事ができません。故に周囲は、機会を提供し応援するぐらいで、その人自身がいろんな経験を通じて傷つきながら少しずつ手に入れていくしかありません。

私は現在の日本は、受動の我慢と能動の我慢を混同し、かつ受動の我慢の機会があまりにも多く、それに適応して希望や夢を抱く人が減り、希望や夢を持つ人に社会が否定的になり、夢や希望がなくなっていると考えています。人間の持つ能力は適応です。適応とは学習であり、受動であれ能動であれ人間は学習をしてしまいます。受動の我慢の過学習のことを、私たちは「学習性無力感」と呼んでいるのではないでしょうか。個人にできることは、自分はどちらの我慢をしていてどのぐらいまでなら許容できどこから先は許容しないのかをきちんと線引きし、しっかりと意思表示と意思決定する事だと思います。また、能動の我慢においては、こうなれなければおしまいだというような直線的な捉え方をせず、どうなっても何とかなるという楽観的で立体的な人生観を持つことだと思います。

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