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【テレビの仕事】哀れみの目は攻撃にもなる

僕の仕事は取材。楽しい話から苦しい話まで、人からたくさん話を聞く。その時、相手と信頼関係を築くために気を付けていることがある。(もちろん、ひとりとして同じ人はいないので、あまりノウハウめいたものとしたくないけれど)

それは、相手を可哀想だと思わないことだ。
正しくは、可哀想だと思ってもそれを表出しないという方が近いかもしれない。

大切な人を失った、故郷に帰れなくなった、自分の人生を諦めざるを得なくなった、この世には、苦しい思いを強いられている人が数え切れないほどいる。心の底から同情し、可哀想と思ってしまうことはあっても、「可哀想ですね・・・」という接し方は相手にはしない。

心の中でどんな感情が渦巻いていても、「何があったんですか?」と淡々と起きたことについて話を聞いたり、「頑張りましたね。」とこれまでの相手の歩みを受け止めるような発言をするように心がけている。

だいたい、可哀想って相当上から目線なのだ。だからこそ、人は哀れみのセンサーを向けられたときに口を閉ざしてしまう。僕自身もそうだ。

今から10年ほど前、恋人との別れ話の際に、顔をグーパンでいかれ、右目から下が真っ青になったことがあった。(突然の告白)
当時は、幸か不幸か、マスクをせずにみんなが歩いていた時代。あのとき、街を歩く人びとや、キャンパスの学友から向けられた哀れみの視線は、今でもまぶたの裏にこびりついている。

「大丈夫?」という言葉は言葉でありがたかったけれど、そう来られると、自分に起きた全ての出来事や感情を改めて語る気になれなかった。何を話しても、”可哀想な人”になってしまうのが怖かった。

あのとき、お前の顔やばくね?とほっぺをツンツンしながらあざ笑った、バイト先の市川。市川は、ボクサーパンツの全てが見えるくらいまで腰パンをしているちょい痛男だったが、なぜか彼には全てを話せた。市川は僕を可哀想ボックスに入れなかったから。

とはいえ、「可哀想ボックスに入れない」と「無礼」は紙一重。
「無礼」ではなく、「フラット」に。自分が上に立たないことを意識して、全神経を集中させている。いつも何か粗相をおかしていないかビビってもいる。



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