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青風 ③


海にしか興味のなかったターラだったが、ある日、思っても見ないことが起こった。
 いつものように海から戻ったターラのところに、若い娘が訪ねてきたのだ。
「あんたがターラ?」
 娘はターラの前にすくっと立つとそう尋ねた。ターラは驚いて、目を丸くしながら頷いた。何しろ島の娘たちは、荒くれ者のターラを怖がり、声をかけたりしなかったからだ。
「あんた、海のことならなんでもわかるんでしょう?この中で、食べられるのはどれ?」
 娘は腰に下げていたアンツクを外すと、ターラの前に差し出した。
 アンツクには、いくつもの巻貝や二枚貝が入っていた。
「紫の縞模様の貝は毒がある。他のは全部食える」
 ターラはボソボソと答えた。
「わぁ、あんた、本当になんでも知っているのね!」
 そう言って娘は、花の蕾が綻ぶように、ほろほろっと笑った。
 その笑顔にターラは見惚れた。
 なんと美しい。カクレクマノミよりも、オトヒメエビよりも、ずっと、ずっと愛らしい。
「おまえ、なんて名前だ」
 ターラは聞いた。
「アコヤ」
と、娘は答えた。

 それからというもの、ターラはすっかり様子がおかしくなってしまった。
 一日中ぼんやりして、漁に出ても、舟の舳先に座り込んだまま、ため息ばかりついているのだ。
「おいターラ!どうしたんだ。魂でも落としたみたいな顔をして。何かあったなら話してみろ」
 何日も海に潜らないターラを心配して、アオカジが波間から顔を出した。
「それが、俺にもよく分からんのだ。アコヤの顔が寝ても覚めても頭から離れない。アコヤのことを考えると、みぞおちのあたりがキューッとしめつけられるようで、飯も喉を通らないんだ。アオカジ、俺は何か悪い病気にかかったんだろうか?」
 ターラの話を聞いて、アオカジはくつくつと笑った。
「ターラ、それは病気じゃない。おまえ、その娘に惚れたんだよ」
 ターラは首を傾げた。
「惚れた?惚れたって、それは一体どういうことだ?」
「おまえそんなこともわからないのか?」
 アオカジは呆れた顔で言った。
「惚れたっていうのは、おまえがアコヤをよめさんにしたいと思っているってことさ」
「よ、よめさん?」
 ターラの顔が、デイゴの花みたいに赤くなった。
「そういうことだったのか。何しろ俺は、生まれてから今まで海のことしか頭になかった。海に出て、釣りをしたり潜ったりしていれば、それだけで満足だったんだ。1人を寂しいと思ったこともない。それなのに、そうか、このわけのわからない気持ちは、惚れたってことなのか」

 しみじみと、そう呟くターラを見て、アオカジは、なんとかターラの力になってやりたいと思った。

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