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衆人環視の中で落とされた"特大カミナリ"の理由。オシムさんが教えてくれた「自分の価値」を最大化する方法


2017年12月23日。

たぶん、一生忘れられない日。浦和レッズの阿部勇樹選手と一緒に、サラエボにイビチャ・オシムさんを訪ねた日だ。

その日のやりとりは、LINE NEWSで記事にさせてもらった。
取材が終わって、ものすごく重いものを背負ったような気持ちになったのを思い出す。

またとない瞬間。この記事は世の中に「記録」としても残っていく。
それを書くのは自分しかいない。事象の価値にふさわしい原稿を書き上げなければならない。本当に身震いがした。

「もしも自分が、記事を書きあげる前に事故にでもあって死んだら、この特別な出来事について世の中の皆さんに知ってもらうことができないのか」

そんなことまで思った。それくらい、特別な取材機会だった。

オシムさんと阿部選手のやりとりの中に、印象的な言葉はとても多かった。
今回はその中のひとつをひもとく。


「オシムの戦術などない」


2人の話が盛り上がってきたあたりのことだ。
オシムさんは「オシムの戦術などなかった」と言い切った。

「新聞記者が勝手に書いていただけだろう」

僕はその言葉に、うつむいて苦笑いするしかなかった。

ジェフユナイテッド市原・千葉時代から、日本代表監督在任中にかけて、ずっとオシムさんが率いるチームの担当をさせてもらっていた。「オシムの戦術」と何度書いたことだろう。

ふと、オシムさんに叱責されたことを思い出した。

「オシムの戦術などない」が「チクリ」とすれば、あの日は「バッサリ」、いや「ボッコボコ」にされたと言っていい。しかも、衆人環視の中でのお説教だった。


日本は発展を遂げた。それなのに君たちだけは…


2005年11月4日、ナビスコ杯決勝前夜祭。
都内のホテル内の会場では、翌日の決戦を控えたジェフ千葉とガンバ大阪の選手たちが、壇上で意気込みを語っていた。

両チームの関係者や報道関係者は、これを立食パーティー形式となっているフロアから見ていた。オシムさんも、ステージの目の前のテーブルにもたれかかるようにして立っていた。

クラブ初のタイトルまであと1勝。今まさに、Jリーグの歴史を変えようとしている人が、そこにいる。
その瞬間に、担当記者として立ち会える。晴れがましい気持ちもあったし、ゆえに舞い上がってもいた。

隣にいた当時の通訳、間瀬さんを通して話しかけた。

「明日は歴史が変わる日になると思うのですが、オシムさんが初めて日本にいらっしゃった1964年当時と比べて、日本のサッカーはどう変わってきたとお感じですか?」
(※オシムさんは1964年の東京五輪のサッカー競技にユーゴ代表として出場していた)

いつものように、含蓄のある言葉を発してくれるものと思っていた。だが、オシムさんは大きなため息をつくと、こう言い放った。

「日本はサッカーに限らず、あらゆる面で大きく発展を遂げた。だが成長がない点が1つだけある。それは君たちメディアだ」

そこからオシムさんは僕に対し、驚くような勢いでまくしたて始めた。間瀬さんがオシムさんをなだめることで精いっぱいになり、通訳が間に合わなくなっていたが、お構いなしだ。

ちょうどニューヒーロー賞が発表されて、阿部選手が壇上で目録を受け取っていた。その目の前で、監督が記者にカミナリを落としている。さぞかし異様な光景だっただろう。


相手を知ること。そして対策を練ること


サラエボのホテル。
12年前とはまったく違う、柔和な表情のオシムさんが目の前にいる。

そして「オシムの戦術などなかった」という恩師の言葉にうなずいていた阿部選手が、口を開く。

「監督は『自分たちのサッカー』という言葉がお嫌いでしたもんね」

サッカーは自分たちだけでやるものではない。相手もいる。試合とは相手の意図と、自分たちの意図とのせめぎ合いだ。

「自分たちのサッカー」という言い方は、相手の意図に対するリスペクトを欠いている。サッカーという競技のあり方にそぐうものではない。オシムさんは常々そう言っていた。

まずは相手をよく知ること。そして相手の良さを消すための「対策」を練る。その積み重ねが「戦術」のように見える。それがオシムさんの考えだ。

2人のやりとりを聞くうちに、12年前のオシムさんのカミナリの理由が、はっきりと輪郭を帯びて見えてきたような気がした。


「カミナリ」の理由


相手の良さを消す手段を考える。

そのためには「自分たちは相手に対して何ができるのか」という分析もまた不可欠だ。敵を知った後、次に知るべきは己。そうでないと、対策の立てようはない。

オシムさんは、当時指揮を執っていたジェフ千葉だけでなく、日本サッカーのレベルを上げようとしていた。後に日本代表監督への就任を受け入れたことからも、それは明らかだ。
世界と戦う。そのためには世界を知るだけでなく、日本人が日本人のことを知っていなければならない。

それにもかかわらず、よりによってサッカーを専門にする記者が「1964年の東京五輪から、日本はどう変わったと思うか」などと聞いてきた。
40年も前からの変化を、自分たちで検証できていない。あっけらかんと、東欧から来た外国人に分析を頼る。そんな印象を受けたのだろう。もしかしたら、その質問を受ける以前から、思うところはあったのかもしれない。

メディアはサッカー界のために検証をすべき立場ではないのか?プロとしてもっと本気で、必死に考えるべきじゃないのかー。
驚くような剣幕は、怒りゆえのものとばかり思っていたが、むしろ理詰めの問いかけだったのではないかと思えてきた。

オシムさんはかつて、セルビアの首都ベオグラードのクラブで監督を務めていた最中に、自分の家族が残る故郷サラエボをセルビア人勢力が包囲するという事態に直面したことがあった。
祖国が内戦で割れ、監督を兼任していたユーゴスラビア代表も分裂。戦火に包まれた故郷に残った家族とは、2年間も別れ別れになっていた。

すべてが変わり、多くを失った。自分とは何者なのか。何のために生き、サッカーをするのか。そう自問自答し続けなければいけないような状況に追い込まれていた。

そんなオシムさんに対して「自分たちってどうですか?」とは…。
オシムさんのカミナリの理由が見えてくるにしたがって、のんきが過ぎた質問だったと遅ればせながらも恥ずかしく思えてきた。

あきれて、無視されてもおかしくなかった。よくカミナリを落とす気になってくれたものだ。


オシムさんが示してくれた「生き方の指針」


オシムさんは千葉をナビスコ杯優勝に導くと、翌2006年にはジーコ監督の後を受けて日本代表の監督に就任した。
掲げたスローガンは「日本サッカーの日本化」。ヨーロッパや南米のやり方を追うだけでなく、自分たちの長所をもう一度見つめなおして戦うべき、と語った。

内戦も体験したオシムさんには当然、ナショナリズムをあおるような意図はなかった。いま思い返すと、生き方自体の指針を示してくれていたような気がしてくる。

自分が属している組織、あるいは社会のことをよく知る。その上で「自分が組織や社会に対して打ち出せる価値とは何か」としっかりと考える。
それこそがアイデンティティー、自分の存在意義だ。ここさえはっきりさせておけば、多くの人に求められ、何かにおもねらずに毅然として生きていける。

僕は新聞社を離れ、インターネット業界に身を投じた。
正直、そこまで深い考えはなかった。だがオシムさんと阿部選手のやりとりを聞きながら、「オシムの教え」になぞらえて考えると、結果的に悪くない選択だったかもしれないと思えてきた。

新聞業界には、自分と同じくらいの力量を持った記者はたくさんいる。だが、同じタイプの人間が少ないネット業界であれば、「自分が組織に対して打ち出せる価値」は希少なものとして珍重されうる。

自分にも、もっとできることはある。そんな気持ちが、ふつふつと湧いてきた。


◇   ◇   ◇


6月で、LINE株式会社に移って3年になる。

その間、こちらの世界に来たからこそできる経験を、たくさんさせてもらえた。それはひとえに、新聞業界に育ててもらった素地があるからこそ。

そしてその素地の生かし方を、サラエボでのオシムさんと阿部選手のやりとりで再確認させてもらったからこそだと思っている。



<サラエボでの取材記事はこちら>

阿部勇樹、イビチャ・オシムに会いに行く。【前編】
阿部勇樹、イビチャ・オシムに会いに行く。【後編】

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