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オシムさんは僕たちに「魔法」をかけて去っていった。


2009年1月4日。成田空港。
搭乗ゲートへと続くコンコースには、最終の搭乗案内が鳴り響いていた。

空港の係員が「そろそろ機内へ」とうながしてくる。
その場にいた僕も、気が気ではなかった。

だが、その人はかまわずに、僕に向かって語り続けた。

「選手たちに対して、言い続けてほしい」
「もっと走れ、もっと戦え、もっとリスクを冒せ、と」

決して流暢ではない英語で、懸命に話す。
それは、相手が自分の母国語を解さない、と分かっているからだ。

車椅子に乗ったその人は、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさん。
6年間の日本滞在を終え、自宅のあるオーストリアに戻るところだった。


2007年11月に、オシムさんは脳梗塞で倒れていた。
10日ほどの昏睡状態の間に、代表監督を退任することが決まった。

僕はオシムさんのことを、ジェフ千葉時代から取材し続けていた。
その流れもあって、代表監督在任中にはたくさんの取材機会をいただいていた。

試合や練習後の取材エリアだけではない。
新幹線のホームで。空港のコンコースで。声をかければ、たいていの場合は応じてくださった。そして代表の現在、そして未来をひもとくヒントを語ってくれた。

そばにはいつも、代表チーム部の津村さんの姿があった。だが、オシムさんが話し出すと、そっと距離をとってくれた。
おそらく…ではあるが、ご本人の「ここで話をしておきたい」というお考えを尊重されていたのだと思う。

オシムさんは僕を「ジェフ・ボーイ」と呼んでいた。
そしてよく、こうおっしゃっていた。

「君たちマスコミの役割も、とても大事なんだ」


オシムさんが脳梗塞を発症された翌朝。
知らせを聞いた僕は、自宅を飛び出した。

救急搬送先の病院は、くしくも当時住んでいたマンションの目の前にあった。
だから、落ち着いて考え直す時間すらなかった。気づくと、敷地に駆け込んでしまっていた。その瞬間、サッカー協会の広報担当さんと鉢合わせになった。

「こんなときに!ありえないですよ!レッドカードだ!」

つい、言い返した。

「こんなときだから来たんですよ!」


言い争うことに、一分の理もなかった。
ショックを受けているのは、広報担当さんも同じだ。そして、ご家族の心情も思えば、どう考えても騒ぎ立てずにいるべきだった。

なによりオシムさん本人が、話しかければ振り返って応えてくれる、というわけでもないのだ。
無礼を深くおわびして、僕は病院近くから立ち去った。いまさらながらに涙が出てきた。

オシムさんのお考え、ご要望を聞ける機会は、こうしてなくなった。

新聞社の毎日の仕事が終わって帰宅するたびに、僕はベランダに出た。
深夜の病棟を眺めながら、思いにふける。

命を取りとめられたことへの安堵と。
指揮を執る姿、そしてお言葉に触れられない寂しさと。


治療とリハビリをへて、オシムさんは外出が可能なまでに回復をされた。

2008年1月には、日本とボスニア・ヘルツェゴビナの親善試合が行われた国立競技場を訪れた。
僕たち報道陣も、久々にオシムさんに会うことができた。8月にはサッカー協会のアドバイザー就任の会見も開かれた。

だが、以前のように本人に話しかけることは、許されなかった。
もし話しかけたとしても、以前のように応じてはくれない気もした。後任である岡田武史監督への配慮を欠くようなオシムさんではない。

それでも僕は、オシムさんがあらわれると聞けば、可能な限り現場に足を運んだ。遠巻きにご本人をながめるだけだったが、それでもよかった。

やがて、そんなことすらできなくなる日がやってきた。
2008年の年末。オシムさんが年明けすぐに日本を離れることを知った。


その日、成田空港の出発ロビーには多くの人々が詰めかけていた。
ジェフ千葉サポーター、そしてゆかりの選手たちだった。

オシムさんは20分ほどをかけて、サポーターのひとりひとりと握手をした。
そして、阿部勇樹、坂本將貴といった教え子たちにも、別れの言葉とエールをおくった。

最後に、僕ら報道陣が集められた。
オシムさんは噛んで含めるように、話をしてくださった。

「ワールドカップ本番でなにが起きうるのか、リアルな情報をファンに伝えてください」

2006年のドイツワールドカップ。
事前の報道を通して、ジーコジャパンに対する世の期待がそれまでにないほどに高まった。

だが、その反動で、1次リーグ敗退による失望はより大きくなった。
サッカー人気を揺るがしてしまうほどだった。

同じことを繰り返さないでほしい。
切なる要望だった。日本サッカーの未来を、心から案じている。そう感じた。


空港のロビーに到着してから、1時間ほどがたった。

オシムさんはまだなにかを話したそうだったが、先に体力の限界が来た。
立ちくらみを起こして、周囲に支えられた。それをきっかけに「最後の囲み取材」は終わった。

空港のスタッフが車椅子を準備した。それに乗って、オシムさんは出国ゲートの向こうに消えていった。
報道陣も解散した。だが僕はどうしても、オシムさんを最後まで見送りたかった。

成田空港では手続きさえすれば、報道陣は出国ゲートの先、搭乗口付近まで入ることが許されていた。
専用の通用路を走って、オーストリア行きの飛行機が横付けされた搭乗スポットへと急ぐ。

息を整えながら、しばらく待つ。
すると、出国ゲートを通過されたオシムさんが、車椅子を押されてこちらへやってくるのがみえた。

やがて、近くまでやってきたオシムさんと、目が合った。
視界が大きく歪んだ。さっきまではこらえていた涙が、あふれそうになった。

だが、泣き崩れることは許されなかった。
オシムさんのほうから、僕に話しかけてきたからだ。


「ワールドカップ予選が終わってからの3か月は、とても大事だ」

オシムさんは、そう切り出した。

「本大会でいいプレーをするためには、しっかり準備をするべきだ」
「選手たちだけではない。君たちも予選突破に満足していてはいけない」

僕は右のひざを地面について、視線の高さをあわせて話を聞いた。
流暢ではないからかえって、言葉に重みが加わるように感じた。

もっと走れ。
もっと戦え。
もっとリスクを冒せ。

そう言い続けて、選手を鼓舞してほしいーー。
強い言葉とともに、右のこぶしが大きく揺れる。

空港の係員が困っているのを察したのだろうか。
アシマ夫人が「イヴァン」と声をかけ、搭乗をうながした。

オシムさんは小さくうなずくと、こちらを向き直して言った。

「ガンバレ」


オシムさんを乗せた飛行機が、搭乗口を離れていく。

僕は近くのベンチに座って、それを見届けていた。
思いもかけず、託されたものの「重さ」を感じた。

「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ」

つい先ほど、日本語で何度も繰り返していた姿が、脳裏に蘇る。
それはオシムさんが日本に滞在していた6年間の「最後の言葉」になった。

あの人のことだ。
最後にこの言葉を選び、あえて日本語で言ったのには、必ず意味がある。

だが、果たしてどんな意味なのか…。


答えが分からないままに、その様子を伝える記事を書いた。

翌日。紙面やネットで記事を目にした選手、関係者から、たくさん連絡をもらった。
みんな、オシムさんの最後の言葉を受けて、それぞれに決意をしていた。

頑張って、走ります。
頑張って、レギュラーを取ります。

そんな、ピッチ内の決意だけではなかった。

頑張って、専用スタジアムをつくります。
頑張って、サッカークラブの職員になります。

それぞれが、それぞれの立場でオシムさんの言葉を受け止め、気持ちを新たにしていた。
現に、僕も思っていた。「頑張って、もっとサッカー界のためになるような記事を書きたい」と。

そうか。
そういうことなのかもな。


オシムさんは来日からずっと、サッカーを通していろいろなメッセージを発信していたように思う。

これまでの常識にとらわれず、常にアップデートをしていくことの大事さ。
対戦相手をリスペクトして、自分と反対側からも物事をみてみる必要性。

それらはサッカーにとどまらない教えだった。
6年の間に、多くの人々がそれを受け取っていたと思う。受け止め方は千差万別。しかしそれぞれに、深く、しっかりと胸に刻んだのではなかろうか。

だからこそ、だ。
オシムさんは最後の一言に「みんながそれぞれに受け止められるエール」を選んだのではないだろうか。

もし、そうであれば。
あえて日本語で言ったのにも、合点がいくのだ。

魔術師のようだ、と僕は思った。


これはあくまで、憶測でしかない。
だから、新聞の記事などに書くこともなかった。

だが少なくとも個人的には「ガンバレ」に励まされ、人生が変わった。

紙面づくりだけをしていればいい。
そんな新聞社の常識を疑えるようになった。ネットにも、ネットに合った題材の書き下ろし記事を書く。それだけで、取材活動への反響が一気に大きくなった。

「対岸」を見なくてはいけない。
新聞社を退社し、40歳で畑違いのニュースプラットフォームに転職したのも「オシムの教え」に沿ったつもりだった。

サッカー界も変わった。
本場であるヨーロッパで日本出身の選手が活躍するのも、珍しいことではなくなった。

そうやって、13年の月日がたった。
2022年5月1日深夜。サッカー協会で通訳をされていた千田善さんが「オシムさんが亡くなられた」と知らせてくださった。


明け方まで、ずっとSNSを眺めていた。
タイムラインは、オシムさんについての言及で埋まっていた。

オシムさんの薫陶を受けた選手だけではない。
本当に多くの人たちが、訃報を受けて、コメントをしていた。

みんながそれぞれに「オシムさんのおかげで」とつづっていた。
普段はサッカーにあまり言及していない人までもが、教えの尊さについて語っていた。それらを見ながら「自分と同じだ」と思った。

含蓄のある言葉と。
「ガンバレ」という、みんなが受け止められるエールで。

オシムさんはたくさんの人に、人生を変える魔法をかけて去っていった。
そんな気がする。

いやいや。魔法などと言うと、ご本人に怒られそうだ。
もっと科学的で、意図も込められたアプローチ。それはまさに「コーチング」なのだろう。

◇  ◇  ◇


もっとたくさんのことを聞いてみたかった。

翌朝。ふとそう思い、無性に悔やまれてきた。
涙が出そうにもなった。そんな僕をみて、妻が言った。

「十分、ありがたい経験をさせてもらったんじゃないの?」

たしかに、そうだ。
ユーゴスラビア代表では、ワールドカップで優勝を目指せるレベルのチームをつくりあげられた。ヨーロッパのトップクラブからのオファーも、引きを切らなかったと聞く。

そんな方があえてアジアの片隅、日本にいらっしゃった。
そして文字通り、命を懸けて仕事をしてくださった。多くの学びを共有してもくれた。

奇跡だったのかも知れない。
朝、目が覚めて「すべて夢だった」と告げられても、さほど不思議ではないほどの奇跡、だ。


いま暮らしているマンションは、当時とは違う。
ここからあの病棟はみえないけれど、僕はなんとなくベランダに出て、遠い日々を思い出す。



あなたは、日本に暮らすみんなにとっての「コーチ」でした。

オシムさん、本当にありがとうございました。





・・・

せっかくなので、これまでオシムさんについて書かせてもらった記事のなかから、いくつかを紹介させていただきたいと思います。

一生に一度、あるかないかの取材現場。


姉崎公園時代は、特によく叱られました。


自分のクルマの助手席にお乗せしたことが一度だけありました。


震災復興に奔走する教え子を支えたのも「オシムの教え」。


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