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note執筆をおすすめしたい理由。浅村栄斗選手が気づかせてくれたこと


このアスリートはすごいー。

新聞記者として取材をしていたころ、そうやってうならされるような出会いに恵まれることがあった。

現在は楽天でプレーする浅村栄斗選手には、本当に驚かされることばかりだった。
アスリートとして、もはや化け物。彼が西武に在籍した当時、担当記者として半年間取材させてもらったが、自分の目を疑いたくなるようなプレーを何度も見せてもらった。

チーム打率1位の楽天でも4番を張る打撃については、言うまでもない。
守っても、あれだけ大きな身体を信じられないほど軽快に動かす。名手ぞろいの二塁手のポジションで、昨年はゴールデングラブ賞を獲得した。

そして、最も驚かされたのが走塁だ。
西武の球団スタッフは当時、こう口をそろえていた。

「相手捕手がパスボールをした際のスタート、12球団で一番早いのは浅村じゃないかと思う」

あらかじめ盗塁のスタートを切っていたのと、すぐに区別がつかない。
そんなタイミングで次の塁に到達する。反応、判断のスピードが、球界でもずば抜けているのだろう。

そして、選手としてのすごさとともに思い出すことが、ひとつある。

取材対象としてのつかみどころのなさだ。
いつも丁寧に対応をしてくれたのだが、あまりにもひょうひょうとしていて、気持ちの波がつかみ切れなかった。

そんな彼が一度だけ、向こうから僕の世界に踏み込んできたことがあった。
そこに至るまでの経験は、今も自分にとって大事な財産になっている。

そしてそれはのちに、noteを始める理由のひとつにもなった。

そこをつづるために、まずは浅村選手とは別の、ある選手との思い出深いやりとりから振り返らせていただきたい。

ペン


取材現場に朝早く着くと、たいていイイことがある。

遅くまで粘って出待ちする記者は、どこの現場にもたくさんいる。
だが早出する記者は意外と少ない。みんな深夜まで原稿を書いているからだろう。

だから、早出した現場では、取材対象からやたらと「こんな早くから熱心ですね」と言ってもらえる。
その流れで、簡単に1対1で話ができる。

選手がルーティーンを変えたことに、いち早く気づくことができる。それも早出取材のいいところだ。
「何かを変えよう」と思う人は、たいてい「次の取り組みの最初」から変える。

練習を始める時間を変える。
練習メニュー自体を変える。
練習の仕方を変える。

どれも、練習の最初から見ておけば、すぐに気づくことができる。

ゴルフ取材で早起き癖がついたのがよかった。
サッカーの現場でも「これ」というネタはたいてい朝に見つけた。

そうやって味をしめていた僕は、2017年に担当をした西武ライオンズの取材現場でも、必ず早出をした。

基本は全員で練習を始めるサッカーと違い、野球はそれぞれのペースでウォームアップを始める。
だから、それぞれの選手の変化が、とても見て取りやすい。早出取材のしがいがある現場だった。

そんな人もまばらな朝のメットライフドームで、僕はひとりの選手の取り組みに、ぐっとひきつけられた。

ボール②


選手たちが試合中に陣取るベンチのすぐ裏に、全面鏡張りの一室がある。
ある朝、人の気配を感じて、そこをのぞいた。

チーム最年長の上本達之捕手が、ひとりでバットを振っていた。

にわかには話しかけられなかった。それくらい、殺気立っている。
にらみつけているのは、鏡に映る自分の姿か。あるいは脳裏に描く相手投手のイメージか。

続けざまに振るわけではない。
まるで試合の打席のように、十分に間をとった上で、一振りする。頭の中で実戦を思い描いているのだろう。

ダッシュを繰り返した後のように、息が上がっている。
次の瞬間、彼はのぞいている僕に気づいた。一瞬にして、普段の柔和な表情に戻る。「あ、おはようございます」

平謝りした。「ごめんなさい!邪魔してしまった」
彼は手を振って笑う。「ぜんぜん、大丈夫ですよ」

年かな、目が覚めちゃうんですよね。
そんなことを言って笑っている。だが、最後に真顔になって、こうつぶやいた。

「人生であと何回、プロの打席に立てるかもわからないですから」

ペン


返す言葉に迷う僕を背に、上本選手は部屋を出た。
ベンチを通って、グラウンドへ。一通りストレッチをすると、バックネットの前に据えられたピッチングマシンのスイッチを入れる。

まだ、誰も他の選手は現れない。
マシンのモーター音だけが、メットライフドームの大きな屋根に響く。

バント練習用に設けられた区画。
上本選手は打席に立ったまま、微動だにしなかった。次々とマシンが投じる球を、ただ目で追い続ける。バントも、スイングもしない。

これを10分近くも続けていた。
明らかな「ルーティーンの変化」だ。僕はここからしばらく、上本選手にくっついて回り、話を聞いていった。

そうして書き上げたのが、1本の記事だ。


ボール②


記事を公開したのは、2017年4月13日の午前9時29分。
ちょうど、楽天戦を取材していた仙台から、千葉へと移動する途中だった。

西武はこの日、試合がなかった。翌日からのロッテ3連戦に備えて、ZOZOマリンスタジアムで練習をすることになっていた。
早めに球場についた僕は、三塁側のカメラマン席で選手があらわれるのを待っていた。

パソコンを開いて、次に公開する予定のコラムを書き始める。
「ちょっとだけ」のつもりが、いつしか没頭している。選手の球場入りを待っていることを、すっかり忘れてしまっていた。

「おつかれさまです」

誰かに声をかけられた。いつもあいさつをしてくる選手だったら、声のトーンだけですぐわかる。
だが、この時は分からなかった。慌ててパソコンを閉じて、顔を上げる。

驚いた。声の主が浅村選手だったからだ。
彼の方から話しかけてきたのは、これがはじめてだった。

原稿を書くことに没頭してしまっていたこともある。まったく心の準備ができていなかった。
彼はそんな僕にかまわず、カメラマン席とグラウンドを隔てる背の低い柵に腰かけると、こう言った。

「なんで、あの記事書いたんすか?」

ペン


ぎこちない関係性ゆえだっただろう。

僕はなぜだか、浅村選手について書いた記事に何か問題でもあったのか、と思ってしまった。

「ごめん、まずかった?」
「いや、あれです。上本さんの記事です」

そこまで言ってくれても、ピンとくるのにちょっと間ができてしまった。
それくらい、あの記事を浅村選手が読んでくれているというイメージが、にわかには湧いてこなかった。

「あ、読んでくれた?ありがとう」
「いえ。しかし、なんでかなって」

ようやく、頭がちゃんと回ってきた。
浅村選手は記者の仕事も、新聞の制作工程もよく分かっているようだ。正直、見くびっていた。

「普通、書かないでしょ」

とても不思議そうに、そして答えを強く求めるように、浅村選手は僕の顔をのぞき込んでくる。
視線をしっかり合わせながら話をする印象もなかった。「つかみどころがない」という彼に対するイメージが変わっていく。

「あの記事、ネットにしか出していなくて。だから書けたんだよ」

自分の発する言葉に、ようやく力がこもった感触があった。

ボール②


そのシーズン、上本選手の出番は1打席だけだった。

朝のルーティーンを変える前日のオリックス戦、4点を追う9回無死走者なしの場面。
上本選手は代打として起用され、平野佳寿投手の前に3球三振に終わった。

前の年は打率3割を記録し、代打の切り札としての立場を確立していた。
その時だったら分かるけど…。浅村選手はおそらく、そう思ったのだろう。

確かに「新聞紙面に誰を大きく取り上げるか」という判断の俎上には、上本選手はまず上がってこない状況だった。
少なくとも、プレー自体を大きく取り上げられることはない。

しかし、それはあくまで「紙面」の話だ。
ネットは違う。掲載できる本数にも、記事自体の長さにも、紙面のような制限はない。

もちろん、まったく価値のないものを掲載してはいけない。
だが紙面のように「主語の知名度」「タイミング」「事象の強さ」などがすべてそろわないと掲載できない、ということはない。

紙面の記事と違って、記事単体が拡散されていくということもある。
ある程度読み手を選ぶような内容でも、書くことはできる。むしろ、その方が一定の読者層に強く刺さることが多い。

だから、シーズンでたった1度の打席、しかも3球三振という結果について、徹底的に掘り下げることができた。
3000文字は、紙面で言えばトップ記事5本分に当たる。たとえ上本選手でなくても、そんな長い記事が紙面に載ることはまずない。そこも、ネット記事ならではだった。

ペン


とはいえ、あまたいる選手の中でなぜ、上本選手なのか。
そこも、浅村選手が知りたいところだったと思う。

僕には確信があった。
上本選手の記事は、間違いなく多くの皆さんの共感を得られる、と。

ネットでの記事の反響を見続けて、気づいていたことがあった。
必ずしも、スポーツ紙の紙面を数多く飾るような選手を取り上げた時に大きくなる、というものではない。

イチローさんのような「飛び抜けた才能の輝き」には、たしかに夢がある。
だが、もう少し読者が自分を重ね合わせられる余地があるアスリートの奮闘の方が、読み物にした時に一部の層には深く刺さるような印象があった。

なかなかめぐってこないチャンスが、ようやく来た。
それをきっちり生かして、ステップアップを果たした。

…というようなシンデレラストーリーは、世の中にはそんなに転がっていない。たいていの人が、チャンスを生かしきれずに歯噛みするのではないだろうか。

自分もそうだ。数えきれないくらい失敗してきた。だからこそ、そこから「どうやって巻き返そうか」ともがく上本選手の姿に共感をした。

いかに「共感」を得るか。どうやって「自分ごと化」してもらうか。
ツイッターやYouTubeで支持される表現者から、そうしたあたりを学んでいた時期でもあった。

ネットに出してこそ、反響を得られる。そう考えて、僕は上本選手を題材に選んでいた。

ボール②


…といったあたりを、どこまで伝えられただろうか。

とにかく、限りある時間の中で、僕は必死に語ろうとした。
ただ、無情にも練習開始のタイミングが迫っていた。

「アサ―!いくぞー!」

いつの間にか、他の選手がストレッチを始めていた。
手を挙げて合図をすると、浅村選手は立ち上がった。一言だけ言い残して去っていく。

「ありがとうございます。ホント、いい記事だったと思いますよ」

報道陣に対して、表情を崩すところをあまり見せるタイプではない。
そんな浅村選手が、踵を返す直前、少しだけほほ笑んだように見えた。

ペン


選手たちがウォームアップを始めた。
三塁側のベンチ前に出て、その様子をみることにした。だが、どうにも身が入らなかった。

浅村選手の問いかけに対して、もう少し整理して、分かりやすいように話すことはできなかったのか。
自分がどんな記者なのかを知ってもらう、めったにない機会。それをフイにしてしまったような気がした。ひたすら後悔をした。

西武の広報担当、増田貴由さんがフラっと近くに来た。
「おつかれさまー!今日はどう?」。社交辞令で聞いてくるのに対して、思わず本気で返してしまう。「いや、実はさっき…」。

経緯を説明すると「へー」と妙に感心している。

「それってさ、別に説明するまでもなく、塩ちゃんの仕事のスタンスは伝わっていたんじゃないの?あの記事を読んだ時点で」

ポン、と肩をたたかれる。

「アサは分かっているよ、きっと。要は『いい記事でしたね』って伝えたかっただけじゃない?」

スマホ


ものすごく基本的なところが抜けていた。

記者の何たるかを示すのは、やはり書いた記事だ。
当たり前のことのようで、つい忘れてしまう。どんな努力を払おうと、高邁な思想があったとしても、それが記事の質に反映されて読者に届かなければ、意味はない。

今回で言えば、それらがたまたま記事に乗っかっていた。
浅村選手にもそれが伝わっていた。だからこそ、本当に珍しいことに、向こうから声をかけてきたのだろう。

それに対して、くどくどと説明を重ねることはなかった。
後悔が一瞬にして、気恥ずかしさに入れ替わった。何を必死に語っていたのか…。

ZOZOマリンスタジアムの三塁側ベンチの前で、僕はもしかしたらひとりで赤面していたかもしれない。

ペン


当時、僕はすでに日刊スポーツ新聞社に辞表を提出していた。

なかなか受理してもらえずに気をもんでいたが、いずれにせよ、新聞記者として残された時間はもう短いと思っていた。

だからこそ、上本選手の「あと何打席あるか」という言葉に共感した部分もあった。
そして、12年半に及んだ記者生活を、事あるごとに振り返るような時期にも入っていた。

書いた記事を読んでもらって、自分の何たるかを分かってもらう。
"難攻不落"と感じていた浅村選手と、最後の最後でそういう機会が持てた。気恥ずかしさと入れ替わるように、少しずつ達成感が頭をもたげてきた。

そして、いろんな選手との関わり合いを思い返した。

プロゴルファーの松山英樹選手を取材した時にも、同じような流れがあった。
彼とは、取材が難しい関係にある時期が長かった。だが担当4年目、アメリカ転戦中のある日、彼が僕のホテルの部屋を急に訪ねてきた。

その日はオフで、少しお酒が入っていたこともある。目の前で、笑いながら僕が書いた記事を朗読し始めた。
「ちょっと、やめてよ」と言うのにも耳を貸さない。

そして、一通り読んだところで急に真顔になった。「この部分なんだけど」と内容について意見をしてくる。

そこから、僕が書いた記事のこと、あるいはこれから書こうとする記事のことについて、よく話すようになった。
耳の痛い指摘もあった。ただそれは、僕の記事に興味を持ってくれている、ということを表してもいた。

そこからは、とてもいい取材ができるようになった。

スマホ


「書いたもので伝える」のメリットに、もうひとつ気づく。

それは、相手の時間的な都合、気分などに、伝えるタイミングを合わせることができることだ。

浅村選手にせよ、松山選手にせよ、本業は「競技」である。
加えて、限られた取材対応の時間の中で、数多くの報道陣と向き合っている。

その中で自分だけが「僕はこういう人間だ」などと伝える時間はない。
そして、たとえ何かの拍子に伝えられたとしても、取材対象がそういうものを受け止める心持ちにあるかもわからない。

松山選手はオフのホテルの自室で、ネットに置いていた僕の記事を読んでくれた。
浅村選手はおそらく、仙台から東京に移動する新幹線の車中だろう。

余暇だからじっくり読む時間もある。伝えたいことを受け止めてくれる気分的な余裕もある。
そんなタイミングで、僕の記事に触れてくれた。

次の日には廃棄されてしまう紙面と、ネットは違う。
自分の考えが伝わるような記事をどこかに置いておけば、読む人が自分の都合のいいタイミングで手に取ってくれる、という可能性がある。

可処分時間の有無。その時の気分。
ネット記事という形は、そういった「伝えたい側と受け取る側とのギャップ」を埋めてくれる。

当たり前のようだが、僕にとってはとても大きな発見だった。

ペン


1か月半後の2017年6月。
僕は日刊スポーツ新聞社を退社し、LINE株式会社へと移った。

そこでもネット記事というあり方に、僕は何度も救われた。
西武担当時代に書いた記事を読んでくれた社員から声を掛けられ、あっという間に社内各部署との縁ができた。

その経緯は、栗山巧選手とのエピソードの中でもつづらせてもらった。

しばらくして「LINE NEWS プレミアム」という枠を任せてもらって、再び取材記事を書くことになった。

オシムさんと阿部選手の記事や、三沢光晴さんについて書いた記事などは、思った以上にたくさんの方に読まれた。そして「あの記事読みましたよ」と言ってくださる皆さんとのご縁につながった。

「LINEアプリ上でも長尺の読み物は読まれるのか」というテストの意味合いが強かった「プレミアム」での執筆には、昨年いっぱいで区切りをつけることにした。
現場から遠いプラットフォーマーが、媒体の記者さんの土俵を荒らすような仕事を無制限に続けるべきではない。初期からそう考えていた。

ただ、自分がどういう人間なのか、何を大事に仕事をしているのか、を知ってもらう機会はあった方がいい。
他にもいくつかの理由が重なったが、いずれにしてもそういう経緯で、僕はnoteを始めることにした。

「note見ましたよ」は、僕の人生の幅をものすごく広げてくれている。
そのご縁で始まるコラボレーションも多く、取材をしていただく機会なども増えた。

◇   ◇   ◇



今は会う人会う人に、noteでモノを書くことをお勧めしている。
書くこと自体を仕事にしている人に限らず、だ。

コロナ禍をきっかけに、かなりの仕事がリモートという形で行われるようになった。
結果として距離の障壁、さらには組織の障壁が取り払われつつある。「その場にいる」ということが、その仕事に関わる必然性とは言いにくくなった。

今後は仕事がAIに置き換えられる分野もさらに増えるだろう。
自分がこの仕事に関わる必然性とは…。そこを説明する必要が、これまで以上に求められるのではないかと思う。

経営コンサルタントの瀧本哲史さんが、生前の「伝説の授業」で語られていたことも思い出す。
アイデアの特異性などよりも「自分がどういうバックグラウンドを持っているか」の方が、仕事に関わる必然性を万人に説明しうるものだ、と。

その見地から言えば、自分の仕事の可能性を膨らませるためには、まずは自分のバックグラウンドを知ってもらう必要がある。

noteはその点、自分の思うところをしっかり、深く書き込むことができる。
そしてプラットフォーム上に記事が置かれるがゆえに、自分も忘れたような頃にどなたかにポロっと読まれている、というのがまたいい。

つまり、相手が読みたいときに読まれる。それがnoteだと思う。
相手に自分のことを知ってもらうツールとして、とても素晴らしいものだと感じている。


仕事に限った話でもないかもしれない。

友人どうし。部活の仲間。地域のコミュニティ。
そうしたあらゆる場で、自分を知ってもらうことは、新しい一歩になると思う。


書くことは人生の幅を広げる。
あらためて、そう感じている。




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