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「バラとアワ」 コロンビアで出会った、ある山の出来事

『バラ』という食べ物がある。先住民族アワの人々の主食だ。

 長さ一〇センチほどのまだ熟していない青いバナナを、皮をむかずに房ごと茹でる。三〇分ほど火にかけて、茹であがったら鍋からお湯を切り、まだバナナが熱いうちに一本ずつ皮をむく。

 この小ぶりのバナナをアワの人々は「チロ」と呼ぶ。この地域でもっともよく栽培され、食される作物の一つだ。山に暮らす人々は、チロをほぼ自給でまかなっている。他にも地域には何種類ものバナナがあるが、バラに一番適しているのはチロだという。

 茹で上がり皮をむいたチロを、長さ四〇センチほどの石の平台に二、三本ずつ乗せる。それを握りこぶしほどの石でつき、捏ねていく。数本潰しては、また数本そこに足す。全部で一〇本くらいをよく捏ね合わせると、握りこぶし二つ分ほどの団子ができる。これを、アワの人々は「バラ」よぶ。元々、アワ語でチロを含めたバナナ一般を「パラ」と呼ぶことが元になっているという。味は、チロの熟し加減でほんのり甘みが差すこともある。しつこさはなく、ねっとりとして腹持ちがいい。主食として、おかずやスープとともに食される。

 それぞれの家庭に、それぞれのバラがある。味や硬さが微妙に異なるのは、作る人のさじ加減だ。土地によっては、力のある男性が作ることもあったが、私が滞在していた「マグイ」という村では、バラを作るのは主に、その家庭の女性の仕事だ。

 滞在中に訪ねた人の家でこんな言葉をかけられた。

「なぁ、今晩はうちの母ちゃんのバラ食ってけよ」

 これは暗に「今日はうちに泊まってゆっくりしてけ」という合図だった。そう言われたら多少予定が変わっても、バラとともに出される夕食をよばれ、次の日の朝においとまするのが礼儀となる。また、農作業など重労働に疲れてくるとこんなセリフを耳にする。

「早く帰って、アヒ(生唐辛子)をかじってバラ食いてぇな!」


 舌が痺れるほど辛い生唐辛子をかじり、少しの塩を舐める。そして塩気と辛味が残る口の中へ、ホカホカのバラを押し込む。日本での漬物とおにぎりのような感じかもしれない。バラがない食事では、どうしても物足りない。アワの人々のソウルフードだ。

 朝、昼、夕、食事の時間が迫る山あいの家々からは、カマドから立ち上る煙とともに、バラをつく小気味いい石の音が聞こえてくる。

「トントントン・・・」

あの日の夕方も同じように、台所からバラをつく音が外に漏れ聴こえていた。

 その日、マリアさんは台所のいつもの場所に腰を下ろし、夕食のバラをついていた。台所に壁はなく、手摺り越しにつづら折りに連なる山並みが見渡せる。先ごろまで降っていた雨が上がり、厚い雲のわずかな隙間から夕日が覗く。向かいの山の斜面を沈みかける太陽が薄く照らしている。来客があったのは、そんな時間だった。

 家の外から、同居する息子の名を呼ぶ若い男の声が聞こえると、息子が表へと出ていった。何か立ち話をしているようだ。

「ちょっとでてくるよ」

 息子は母親へ呼びかけ出ていった。「友達でもきたのかな?」。マリアさんはバラをつきながら、「まぁ夕食を食べる頃には戻ってくるだろう」と、特に深く考えることもなく、家族のバラをついていく

 家では、夫、息子の妻と子どもたちが暮らしている。大人数のバラを作るのはもう慣れている。ふと手を止めて少し腰を伸ばす。窓から見える谷向こうの山道に何気なく目をやる

 「あ」 

 数人の迷彩服をきたゲリラ兵士に囲まれ歩く息子の姿がマリアさんの目に入る。一行は、山道の奥へと歩いていく。やがて、木々の奥へと消えていき姿は見えなくなった。

 あれから一〇年が過ぎた。未だに息子は帰っていない。殺害され、どこかに埋められたという噂がたった。本当のところはわからない。

 時間だけが過ぎていく。マリアさんは今も毎日バラをつき続けている。腰を下ろすいつもの場所からは、最後に息子の姿を見た山道がよく見える。

 コロンビア南西部の山岳地帯にアワの人々によるマグイという共同体がある。この話は、マグイで二〇〇九年に息子を反政府ゲリラ・コロンビア革命軍(以下、FARC)に拉致された母親の体験だ。遺体はまだ見つかっていない。

 マグイを含む、アワが暮らす地域は二〇〇〇年代、コロンビアで最も激しい戦争に飲み込まれた場所の一つとなった。山間部にはFARCが拠点を置き、その麓の町から海岸にかけては、政府軍や右派準軍事組織(以下、パラミリターレス)が支配した。その対立の前線にマグイは置かれたのだ。

 当時、山に拠点を置くゲリラに対して、政府軍の激しい攻撃が繰り返された。劣勢に追い込まれる中で保身に走るゲリラは、情報を外部に漏らされることを強く恐れ、敵と接点を持つ、または持ったと疑う住民を殺害した。政府軍やパラミリターレスは、山の住民をゲリラの協力者とみなし、脅迫し、同じく殺害した。

 マグイで息子をゲリラに連れ出されたマリアさんも、戦争に人生を大きく変えられた一人だ。冒頭の場面は二〇〇九年の出来事だが、それ以前の二〇〇五年、彼女は戦闘の激しさから避難民として町に出ている。一時は隣国のエクアドルでも生活をしていたが、慣れない土地での生活は精神的にも、経済的にも厳しく、二〇〇六年、まだ戦争が激しく続く故郷へと戻った。苦しい外の生活よりも、慣れ親しんだ故郷での生活を優先させたのだった。しかし、彼女はマグイに戻って三ヶ月後に、さらに一人の子どもをFARCに殺害されている。二〇〇九年は彼女にとって二人目の息子が犠牲となったのだ。

 しかし、それでも彼女は山に暮らし続けた。なぜだろう。

 マグイでは、たくさんの人が戦争によって亡くなり、行方不明となってきた。住民の大部分が、親族から一人は犠牲者をだしている。コロンビア全体では戦争により、七〇〇万人を超える避難民、二六万人に及ぶ死者と、八万人以上の行方不明者を出してきた。そして、この戦争は、山や森の奥など外の世界から見えにくい場所で続いた。半世紀を超えたこの戦争とはどんなものだったのか。そこで人はどう生きてきたのか。

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