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学校の「嘘」は誰のものか? 『小学校 〜それは小さな社会〜』ダイジェスト動画を見た

『Instruments of a Beating Heart』(『小学校それは小さな社会』のダイジェスト版)を見た

 『小学校それは小さな社会』というドキュメンタリー映画が話題になっている。映画の公式サイトにある監督プロフィールに、本映画のダイジェスト版として作成された動画『Instruments of a Beating Heart』が、ニューヨークタイムズの動画サイトで紹介されたことで話題になったと書かれていた。というわけで早速視聴してみた。

 私は映画本編は見ていない。だから映画自体の感想を書く資格はない。この動画だけを見て私が思ったのは、学校の「嘘」って誰のものか?ということだ。

学校は「嘘」が通用する場所だった

 日本の学校は昔から、「嘘」が通用する場だった。
 内田樹さんは自身のブログや書籍で、学校の虚構性について指摘している。

学校という「虚構」があればこそ、そこでは「現実社会ではとても言葉にされないようなこと」が堂々と言葉にされる。

内田樹の研究室『学校の制度性について、など』
https://note.com/summaru/n/n7a4e4ba39456#b106d33d-011e-432f-96ae-124294666357

 学校は、制服や時間割、どうでもよい規則など、現実社会にはないもので子どもたちを囲んでいた。整然と並んだ教室には教壇があって、そこに立った人が教師として子どもたちに滔々と学問を語る。学校にはある種の虚構性、嘘があった。その嘘があるからこそ、子どもたちは生徒になれるし、教壇に立った大人は教師になることができる。教師が過激な思想や奇想天外な話で生徒の心を鷲掴みにしても、教室から出れば虚構から抜け出して現実に戻る事ができる。生徒も同様に、学校という嘘の中だからこそできることがある。現実ではできないことができる。それが学校での学びだった。
 別の言い方をすれば、教師と生徒は学校の嘘をお互いに共有するという、ある種の共犯関係が成り立っていたのではないだろうか。

学校の「嘘」は暴かれている

 私がこの動画を見て感じたのは、教師が学校の虚構性を一方的に子どもに振りかざす構図になっていることだ。そして子どもたちは、その虚構によって受けた苦しみや悲しみを、自分を高めてくれた本物の経験として受け止め肯定しようとする物語。教師が振りかざす嘘が現実になっていく。そこまでひっくるめたプロセス自体が虚構すぎて、見ていて胸が苦しくなった。
 しかし、ここで強調すべきは、子どもと向き合う教師たちは、学校の嘘が暴かれた状態でもなお、その嘘を子どもに信じ込ませようとしなければならない状況にあるのではないか、という事だ。
 かつて通用した学校の「嘘」は、もうとっくに暴かれている。
 学校は社会で生きていくために必要な力を身につける場所である。子どもの未来のためにより良い教育を提供しなければならない。そのため、全ての学びが、何のために学び、どんな力が身に付くのかを明確に保護者と生徒に説明する責任が教師にはある。保護者と生徒は、教育の費用対効果を比較しながら、学校を選ぶことができる。校則やきまりなども、合理性によって説明できないものは必要ない。意味のないものは必要がない。そこでは学校の「嘘」は一切通用しない。
 教師という「嘘」も暴かれている。残業代も支払われない長時間労働で教師は疲弊している。そんな中でも子どもたちのために、やっとの思いで教壇に立ち続けている。というか、もう教室には教壇などというものは物理的にも虚構的にも存在しない。学校の虚構性が暴かれた中で、学校という場を機能させなければならないのだ。

現実に近い「嘘」が子どもと教師を苦しめる

 そんな中で、学校を学校として機能させるためには、教師がなるべく現実に近い「嘘」を子どもにつき続けるしか方法がない。それがいまの学校であり、動画の学校ではないだろうか。動画では、教師が子どもたちに向かって練習や努力の意義を懸命に子どもたちに訴えかける。子どもたちの失敗や葛藤に寄り添い、子どもたちの成長を見守る。その眼差しは嘘偽りはないし、教師としての指導の技術も高い。しかも、「子どもを泣かせてまでやらせる必要ある?」とか「まあ、そりゃ練習したくない時もあるよなあ」とか、そういう教師の本音も見えない。教師自らついた現実に近い「嘘」のもとでは、教師は子どものために尽くし、子どもの成長に100%寄与する品行方正な教師で居なければならない。
 子どもたちも同様だ。もしかすると、動画での子どもたちは、この経験を監督と同様に、責任感と勤勉さを学んだと後に振り返るのかもしれない。自分にとって必要な経験であったと肯定するのかもしれない。しかし、現在の不登校を取り巻く現状を見れば、現実に近い「嘘」によって傷ついた子どもたちがいることは紛れも無い事実だ。それが必要な経験であったか考えられるのは、それを乗り越えられた人だけに与えられた特権だ。
 学校の「嘘」が、子どもを現実から守るためにあったものが、現実をそっくりそのまま学校に適用するための、現実よりもしんどい状況を学校に持ち込むための「嘘」にすり替わっている。

学校が人をつくるという「嘘」

 そもそも、学校が人をつくる場所であるという言説こそ、現代が生み出した「嘘」なのかもしれない。
 「学校は間違えるところだ」と言う。本来それは、子どもたちが思いがけずに間違えた経験のあと、事後的に立ち上がる言葉だ。しかし、この動画は冒頭から、大人が子どもに「学校は間違えさせるところだ」「学校は失敗や葛藤を味わわせるところだ」という一方的な「嘘」が見え隠れする。私は、そこがどうも息苦しい。
 しかし、その「嘘」によって、自分はその学校の経験によって自分自身が作られたんだ、と思わされること自体が虚構であって、それが今の学校のしんどさ、苦しさを生んでいるのではないだろうか。
 この動画の元になった、映画のパンフレットにあった武田砂鉄さんの言葉は、そんな「嘘」を見事に表現していると思う。その言葉を引用して終わりにしたい。

「みんなで一緒に個性を探しましょう」みたいな矛盾。
みんなって誰? 何? それ、どこにあるの?
武田砂鉄

映画 小学校〜それは小さな社会〜https://shogakko-film.com/opinion-comment

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