もし、の世界
二十世紀末から現在に至るまでの、約四半世紀で、我々人間を取り巻く生活環境というものは大きく変わった。
その代表的なものの一つとして、ケータイ電話、スマートフォンの登場が挙げられる。
これは、人間が生きていく上で果たして幸せをもたらすものなのか、それとも不幸をもたらすものなのか今もって私には分からない。
一家に一台、もっと昔を言えば町内に一台という具合に、家庭に電話が設置されていることは圧倒的に少なかった。
何か急用があったりした時は、
「何番地の誰それさんに電話を下さい」
と言ってよその家であるから、どんな大切な話であろうと気を遣い、短時間で話を済ませるのが当たり前だった。
電話が家になかったおかげで、皆が皆、本意ではなくても他人の家を訪ねたし、お礼もお詫びも伝えたし、とにかく否が応でも人との関わりが確かにあった。
それから随分時代が変わり、一家に一台電話が設置されてからも人の家へ電話をかける前は、誰が電話口に出るか分からないものであるから、失礼のないように、少し咳払いをして喉の調子を確かめたり、話す言葉を頭の中でまとめたりと、 事前に準備をしてから電話をかけたものだった。
話したい相手と直通ではない分、声で伝えることの意味や難しさといったものを、どこか頭できちんと考えていたように思う。 しかし現代ではケータイ電話の普及により、そんな気を使う必要もなくなってしまった。
生活の中で、見知らぬ人と簡単に知り合えるようになった分、何回かの段階を踏んで話したい相手に辿り着いた頃とは違って、そういった否が応でも通らなければならなかった道を、通らずに済むようになってしまった。
これは、苦手なことを一つ増やす要因となってしまったようである。電話をしたがらない、声に出して話をしたがらない人間を生み出してしまった。これは、ケータイ電話の『負の要素』であると言える。
慣れている人は何ともないのだろうが、中々、私の周りでもいきなり電話をすると、嫌がる人が結構いる。
そういった人には、私もそのような対応をするのだが、せっかく話せる口があるというのに、四角い画面に向かって指を触れるだけの、文字の会話というのは、やはり寂しいと私は感じる。
残らないからいいということもある。
いきなりだから、取り繕う間もなく、真剣勝負で話さざるを得ないこともある。
電話をかけるという行為は、時にその人の本質をまざまざと見ることになる時もあるのである。
こういった真剣勝負を避けたがる人が多いのは残念である。
『もし』 という世界はないのだが、ケータイ電話の登場は、人々から呑気な時間と真剣勝負の機会を奪ってしまったのではないかと感じる。
そのせいか、私は今、余り幸せではないような気がする。
2022年9月28日 書き下ろし。
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