五・七・五・七・七の世界
最近、ソーシャルメディアで短歌が流行っている。いろんな意味で余り『制限』がなくなったような今の時代において、なぜ今、五・七・五・七・七・の三十一文字に思いを託す人々が出現しているのか、不思議でならない。
私は子供の頃、自作の短歌を新聞歌壇に送って掲載されたことがあった。小学六年生か中学一年生の時だったと記憶している。確か、その当時の選者は佐佐木幸綱先生だったと思う。
今のようにコンピューターが世の中の、人間の活動の一部、いや、半分と言っても良いくらい、人によっては全てと言う人もあると思うが、蔓延っていなかった頃のことである。
毎週日曜日だったか、週に一度の掲載日に自分の詠んだ短歌が掲載されていないか、真新しいインクの匂いがする新聞をワクワクしながら開いたものだったが、私の短歌が新聞に掲載されたのは、送った数も作っていた時期も短かったせいか、それ一度切りだった。
その後、中学生になり、町の講演会か何かで歌人で文化功労者でもある、今は亡き近藤芳美先生がお見えになった。
私はその講演会に参加し、近藤先生のお話を拝聴したと思うのだが、どんな内容だったか、本当に講演会だったのかは残念ながら、私の記憶からは綺麗さっぱり消え去ってしまっている。
ただ、講演会終了後に、私は近藤先生の楽屋を訪問している。その時、写真をご一緒に撮らせて頂きながら、近藤先生に「どうして短歌を始めたのか?」とか質問されたのだと思う。私は近藤先生に日記帳のような分厚いノートにサインを書いて頂いた。そのノートは今も私の手元にある。
その後、近藤先生は当時、ご自身が主宰されていたか何かの、短歌の同人誌のような物を二三、私に送って来て下さり、歌会にお誘い下さったが、当時、子供だった私にはその同人誌は読んでも難しく、また、そんな滅多にない偉い先生からのお誘いに、私は怯んでしまったのか、一度も顔を出さずに終わってしまった。
私は誰の人生でも、何度かもたらされると言われているチャンスというものを、早くも十代の時点で逃している。
後から気づいても遅いのである。
あの時、近藤先生から直々に歌の手解きを受けていたら、もしかしたら今頃は職業歌人になっていたかもしれないと、自分の才能の有無を棚に上げて思ったりしている。
そうでなくとも、もっとマシな歌を詠めるようになっていたのではないかと、残念に思うのである。
そんな現代において、同人誌とか歌会とか、そんな仰々しいものではなく、カジュアルな感覚で日常の心模様を誰に託すでもなく、その三十八文字に託す人の中の一人に私もなってみようと思ったのだった。
私は俳句や川柳も好きだが、どうもそれではスペースが足らない、文字数が厳しいのである。ハードルが高いのである。どうやっても十七文字には収まりがつかないのである。その点、短歌は五・七・五で忘れていたことを、七・七の十四文字で付け足しが出来るような、そんなところも気に入っている理由である。
今日から早速、二首詠んでみた。
梅
雨
明
け
も
し
て
い
な
い
の
に
こ
の
暑
さ
今
年
の
夏
も
ど
う
な
る
こ
と
や
ら
🌞
何だかさぁ
無性にそうめん
食べたくなる
そんな日あるよね
今日がその日だ🤸
じゅん&ネネ
じゅんが何だか
ピンキー(今陽子)に
似てると思うの
私だけかな?
これは、ツイッターの方に投稿したのだが、『じゅん&ネネ』のじゅんさんがどことなく『恋の季節』の大ヒットで知られるピンキーとキラーズの、ピンキーこと今陽子さんに似ていると思った私が、そう思っているのはきっと自分だけではなかろうと思って詠んだ歌である。
最初、ピンキーにしたが、ピンキーが誰か分からない人がいるかもしれないと、今陽子に変えて掲載したのだが、やはり「今陽子に」では字余りだったので、分かっても分からなくても「ピンキー(今陽子)」に改めたのである。それなりに目にした方がいたらしく、『いいね』を頂いたりした。
こんな感じでって、こんな感じでは決してないだろうが、勘に委せて思ったことを三十八文字に託すのも良いかもしれない。
例えば、物事や連絡事項を簡潔に相手に伝えるための、訓練にもなりそうである。
夫
なぁ、○○○
急で済まない
晩ごはん
たまには外で
一緒にどうかな?
妻
まぁあなた
どんな風の
吹きまわし?
誘う相手を
間違えてない?
なんて、返歌で返されそうな方は、次のような短歌は如何だろうか。
夫
今朝確か
ワサビがないって
言ってたな
帰りに俺が
買って帰るよ
妻
まぁあなた
それならついでに
ガリガリくん
買って帰って
一緒に食べよう
(字余り)
なんて具合に、要件も簡潔に伝えられる短歌を、ぜひ、詠んでみては如何だろう。
遅蒔きながら、近藤芳美先生を懐かしみながら、短歌も詠んでいきたいと思う。
(ニ〇二三年六月二十六日)
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