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釣りに行きたい雨の日に

僕は釣りが好きだ。

だけども、タイもコロナで中々思うように釣りに行けない。しかも今日は夜明けから雨だ。雷もなっている。

この間、といってもひと月以上前だが、コルクラボのオンライン春合宿があった。

哲学者の苫野一徳さんをゲストに迎えて本質観取というワークショップを行った。本質観取とは、端折って端折って説明すると、、、

ある事象について様々な角度から光を当てたり、発散や集中、具体化や抽象化等を行き来して、「つまり、こういう事だよね」と物事の本質を言い当てるワークショップだ。(いや、ほんと端折りまくって失礼なレベルとも言えます、すいません)

そこで、僕らは「愛」と「恋」について話したのだが、休憩に入るタイミングでたまたまサディとこんな話をした。時間がたっているので少し曖昧だが、

僕「サディにとって、本とか文学は愛なの?恋なの?」

サディ「いや、もはや「好き」とか「きらい」とかいうものではないね。恋というより、使命感のような、、、一生かけてつきあっていくものの様な、体の一部というか。だから愛なんだろうね」

僕「へぇー!(すご!突き抜けてる!)」

サディ「だいすけも、釣りの事、もう恋よりも「愛している」という感覚ではないんじゃないの?」

僕「あぁ、確かに。一生かけてやってくものだね。釣りなら何でもよいし。使命感も確かに。。。釣れたほうがいいけど、釣れなくてもよいし。準備も楽しいし、いろんなプロセスも全てが僕の一部だな。」

この会話、ワークショップのテーマをベースとしたほんと何の気ない会話だったのが、僕にとってはあれからずっと胸に引っかかっていた。

僕にとって「釣り」とはなんだろう。

それを知る為に、暫くの間、自分と釣りとの思い出を振り返ってみよう、と思う。

実は、何度もこんなブログを書こうとはした。その度に、手を進めらずにいた。

人生の一部と思っていても、釣りで生計を立ててるわけでもないし、もっと釣りに対して偏愛している人たちは沢山いる。そんなにエキスパートな訳でもない。文章も上手くはない、、、

だけど、釣りに行きたいこの日々に、僕にとって大切な関係を見つめなおしてみようと思います。今の自分なら何か気づくことがあるかもしれない。


あ、雨は止んだ。

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