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【麦酒夜話】第二夜 金沢のおでん

 婚前旅行は、親には内緒。そんな奥ゆかしい奥さんが彼女だった最後の夏、2人で金沢へ行った。楽しみは、できて間もない21世紀美術館。中でもレアンドロ・エルリッヒのスイミング・プールは、雑誌やテレビで何度も見ており、そこで写真を撮ることが、旅の目的になっていた。到着したその足で向かい、アニッシュ・カプーアのL'Origine du mondeに圧倒された。兼六園、浅野川、ひがし茶屋町、近江町市場。美味い寿司を食い、昼間っからビールを飲んだ。

 宿は素泊まりだったため、夜は食事に出掛けた。香林坊にいい雰囲気のおでん屋を発見。暑い時期ではあるけれど、ここに入った。今のようにスマホはまだ少なく、ガラケーが主流の時代。ネットで調べるのはPCが当たり前で、出先では手探りだ。こうした不便さは、案外楽しい。手前がカウンターで奥が宴会用の座敷。家族経営で、お父さん、お母さん、高校生のお兄ちゃん、小学生のおとうと君の計4人。カウンターにはカップルが1組で、奥の座敷に8名くらいのグループ。そしてわれら2名。比較的空いているのもうれしかった。

 席につき、まずはビールを注文。一日歩いて疲れた体に染み込むうれしさ。昼のビールはすっかり汗となって消えていたのだろう。さて、これから食べる熱いおでんにもよくあいそうだ。そうだジャガイモなんてどうだろう。早速注文しようとしたそのとき、カップルに「間に合いませんで、すみませんでした」と謝るお兄ちゃん。なんだなんだ???カップルも、もういいよと寛大な、でもそっけない態度。どうやら、ジャガイモを注文したのに、茹で上がらず、しびれを切らしたカップルの男の方が先にお会計を頼んだということらしい。ジャガイモって、そんな変わり種か?キッチンで働いていたからわかるが、こういったものは事前のアイドルタイムに仕込むべきもので、この程度の客数で品切れが起こるのは、かなり段取りが悪い。やや不安になりながら、カップルの会計を待って、鍋に入ってそうな具材を探すことにした。

 奥の座敷は盛り上がっているようだ。幹事っぽい男性が、店の奥さんに「すごくおいしかったよ」と、旧知の仲のような感じで話している。これは常連さんか。顔は真っ赤で、すでに出来上がっている。この宴会のために、さっきのカップルは犠牲になったのか。でも宴会もどうやら終盤。落ち着けば、店も回り始めるだろう。そう思った矢先、店の小学生のおとうと君が、店の外に走り消え去った。座敷からは、クレソンのパスタという、おでん屋らしからぬ注文の声がする。奥さんが注文を取ってきたけれど、ご主人は何やらぶ然とした態度で、黙々と何かの作業をやっている。そして奥さんはご主人に詰め寄って、何かにあきれて、手伝い始めた。するとまた座敷から、今度はウーロン茶早くとの声。お兄ちゃんの顔に血の気がない。どうした?するとおとうと君が2リットルのウーロン茶のペットボトルを抱えて帰宅。お母さんがすぐにグラスへ注ぎ、謝りながら座敷へ。クレソンは、もういいよ。冷たい一言に、それでもご主人はクレソンのパスタを仕上げていた。

 私たちは、かなり忙しい飲食店で働いてきた。だから自分たちと重ね合わせずにはいられない。生きた心地がしない感じと、準備が不十分で、おでん屋のくせにクレソンのパスタとか訳の分からない趣味のようなメニューを入れる計画性の無さに腹立たしい気持ちと、喧嘩でも起きやしないかというハラハラした気持ちが入り交じり、とてもおでんどころではない。当然、注文もしづらく、ただ息をのんで観察しているだけの時間が続いた。

 しばらくすると団体が帰っていく。すると真っ青だった店の家族の顔が少しずつ血の気を帯びていく。あー終わったんだね。私たちは、思わず拍手を贈りそうになった。カウンター席の、目の前のお兄ちゃんもほっとした表情だ。そういえばお腹が空いている。さて、何を注文しようか。目の前の鍋には、悔しさの塊がグツグツ言っている。「お兄ちゃん、これ頂戴」。苦笑いを浮かべながら皿に盛られたそれは、出汁が沁み込んだ、ビールによく合う、しっかり煮えたジャガイモだった。


Connecting the Booksは、これまで培ってきたクリエイティブディレクター、コピーライター、編集者としてのノウハウを公開するとともに、そのバックグラウンドである「本」のレビューを同時に行うという新たな試みです。