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【麦酒夜話】第八夜 ブロムレイサウス

 目覚めたら3時だった。陽はまだ遠く、空は薄い紫で覆われている。向こう側で聴き慣れないサイレンの音がする。ここはイギリス・ロンドン近郊ブロムレイサウス。時差ボケの青年は、ホームステイ先へ無事にたどり着けた事実を反芻していた。

 関空からシャルルドゴール空港への長い空の旅の後、ヒースローへ乗り継いだ。到着したのは夕方で、その1時間少しのエールフランスの機中、バゲットが出たことにお国柄を感じ驚いた。ヒースロー空港は、関空やドゴール空港と違って無骨で古びている。迎えに来てくださった日本人の方に連れられ、地下鉄に乗り込んだ。TUBEと呼ばれるその車内は狭く、大柄なイギリス人が体を折りたたむように乗っている。目の前には、黒人の男性と、180㎝以上あるだろう白人のお婆さん。自分たちが子供の国から来てしまったのではないかと怖気づいた。

 地下鉄はしばらくすると、地上に出た。あたりはすっかり夜で、見える景色は赤茶けたレンガ造りの住宅ばかり。どの建物にも白熱灯が灯り、オレンジに浮かび上がる古い建物は不気味で、電車はこのお化け屋敷たちの中を高速で突っ切っているかのような感じだった。1時間少しでたどり着いたのは、ロンドン郊外の町。かつてデビットボウイが生まれた町に隣接するベッドタウンだ。駅を出て左に曲がり、オックスファムがある交差点を渡ったところにホームステイ先があった。

 外国人は、土足で家に上がる。体験したことのない耳学問を実践して怒られた。ホームステイ先は日本式で、玄関で靴を脱がなけばならない。早速夕食をいただいたのだが、日本の炊き込みご飯を供され、拍子抜けだった。

 ロンドンには2週間ほど滞在した。ナショナルギャラリーでゴッホに初めて出会い、テートモダンでウィリアムケントリッジを知り、テートブリテンでターナーに惚れた。カムデンのライブハウスでエキサイトし、ピカデリーサーカスでロンドナーを気取った。そしてパブでラガーを楽しんだ。初めて知る世界は新鮮で魅惑的で、出逢うものが全て身体に染み込んでいくような、そんな時間だった。

 あまりに感動し、住みたいとまで思ったロンドンが忘れられず、2年後に再訪した。相変わらず街並みは美しく、ゴッホもターナーも変わらぬ魅力があった。しかし、どうも違う。必死で2年前の感動を探したが見つからず、翌日スコットランドへ旅立った。

 人生に「初めて」という刺激は一回しかない。再びロンドンへ行くことがあっても、あの時の感動はもう味わえない。でも繰り返すから分かる良さもある。

 どんよりした曇り空の東京で思い出すのは、ロンドンの日々。青春の想い出を肴に呑むラガーの味は、あの時のロンドンのパブでもらったそれよりも遥かに美味しい。

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Connecting the Booksは、これまで培ってきたクリエイティブディレクター、コピーライター、編集者としてのノウハウを公開するとともに、そのバックグラウンドである「本」のレビューを同時に行うという新たな試みです。