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【麦酒夜話】第一夜 春の鮨

 春から部署を任されることになった。若かったからか謙遜もなく、新年度は楽しみでしかない。現場の業務も大部分を部下に任せられるようになり、もっぱら新規受注のことだけに集中しようと思っていた。今よりもエネルギッシュで、怖いもの知らず。喧嘩っ早く、疲れもなかった。そんな出鼻をまさかひとりの新入社員に挫かれようとは。

専門卒の20歳で入社してきた彼女は、前任の部署長が面接で採用した、いわば置き土産だ。ケラケラと笑い、物怖じしない。無理に髪を黒くしているようで、押し付けられた清楚さは、ヤンチャ感を際立たせている。つまり、ヤンキーだ。緊張感ゼロ。尚且つ入社前はCDジャケットをメインとするデザイン会社でアルバイトをしていたことが自慢らしく、自身は仕事ができると思っている。どのチームにつけるべきか。頭を悩ませ、信頼できる女性ADの部下にした。

この女性ADは、東北育ちの末っ子で、親は教師。高校時代にフランスへ留学し、帰国後は国立大学に進んだお嬢様。バレーボール仕込みの根性で、徹夜も厭わないガッツが売り。かたや都会育ち、根気なしで常識知らず。室町幕府は足利タカオなる人物が将軍だと思っている気合の入ったヤンキー。このチグハグな関係は、瞬く間に破綻することに…。

ある日、人事課から連絡が来た。新入社員研修時のアンケートで気になる箇所があるとのこと。そこには 辞めたい の4文字。このアンケートを見た日、本人の口から同じフレーズを聞かされる。女性ADに共有するも、やれやれといった諦めと、ホッとしたという安堵が入り混じった複雑な表情で、その顔を見ると、とてもこちらからは何か言えない。入社1ヶ月。こんなに早く辞める新入社員は後にも先にもいなかった。

新入社員が入ったとき、それは中途採用であってもそうなのだけれど、一度は食事に行くようにしていた。鮨でも行くか。引き留めようという打算は全くなく、ただ義理を通したかっただけだった。そこは居酒屋の延長線上のような店で、店内はがやがやしている。こういう店では、日本酒よりもビールだ。タンブラーに、なみなみと注がれたキリンラガービールで、退職をする社員の、入社祝いの乾杯。苦くて、旨い。旨いといえば、マグロの赤身。まるで中トロのように甘い。会社は辞めてもいいけれど、次行くところは、辞めないように。鮨の話題以外に話したのは、このくらい。相手がどんな表情をしていたのか、今となってはあまり記憶していないけれど、鮨を確かにうまそうにほおばっていた。生ぬるい春の夜風。ほろ酔い気分で、家路につく。

翌日、彼女はデスクに来た。最近は翌日にお礼を言わない若手が多くなってきただけに、なかなか礼儀正しいところがあるなと思ったら違った。突然泣きながら「辞めるの、止めます」。

彼女はその後5年間頑張った。デザイナーと胸を張って言えるような仕事ができるようになった。あの時辞めていれば、また違った人生があったかもしれない。でも、彼女は続けることを選んだ。人生に正解なんてないのだろうけれど、あの日鮨屋に行ったのは正解だったと思っている。苦くて、旨い。そんな一日だった。

Connecting the Booksは、これまで培ってきたクリエイティブディレクター、コピーライター、編集者としてのノウハウを公開するとともに、そのバックグラウンドである「本」のレビューを同時に行うという新たな試みです。