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Ahmad Jamal / At the Pershing - But Not for Me

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At the Pershing - But Not for Me  / 1958

1930年にペンシルベニア州ピッツバーグで生まれたフレデリック・ラッセル・ジョーンズは3歳でピアノを始め、14歳の時からプロとして活動を始める。そして演奏ツアーで立ち寄ったデトロイトでイスラム教やその文化に触れ、興味を持つようになり、1950年にシカゴに引越すと「自分の元の名前を再確立したい」という願望から合法的に名前をアーマッド・ジャマルに改名する。

1950年に20歳でイスラム教に改宗したジャマルは、ピアノや音楽の才能に恵まれた早熟な少年だっただけではなく、精神的にもかなり早熟で鋭い感受性や独創的な視点を持っていたのではないだろうか。

因みに音楽とは関係ないが、カシアス・クレイがイスラム教から派生した新宗教、ネーション・オブ・イスラムに加入し、名前をモハメド・アリと改めたのは1964年、22歳の時。

ジャマルのプレイ・スタイルの特徴はコントラストのつけ方だ。音と音の間に余白部分を残して音を際立たせる:音の有・無のコントラスト。豪快なタッチと繊細で軽いタッチを巧みに使い分ける:タッチの強・弱のコントラスト。ジャマルは音を敷き詰めるようにグイグイ弾き進むピアニストでもなく、軽い叙情的な雰囲気を売りにするピアニストでもない。

このジャマルのスタイルにマイルス・デイヴィスは感銘を受け、自分のクインテットに勧誘したが、ジャマルはシカゴに留まることを望み、その誘いを断った。どうしてもジャマル風のピアノタッチが欲しかったマイルスは、当時クインテットに属していたピアニスト、レッド・ガーランドにジャマル風に弾く様、命じたという。

そしてジャマル的なスタイルは、以降のジャズ・ピアニストにとって学び、身に着けるべき重要な科目の一つとなる。

このアルバム『At the Pershing: But Not for Me / バット・ノット・フォー・ミー』はシカゴのパーシングホテル内の”パーシング・ラウンジ”で1958年1月16日に録音されたもの。

メロウなスタンダードナンバー《Moonlight in Vermont》や軽快なディジー・ガレスピーの名曲《Woody 'n' You》、ジャマルのトレードマーク的な代表曲《Poinciana》などでマイルスが憧れたジャマルのピアノ・スタイルが聴ける。またピアノの高音が鈴の音のようにコロコロ響く《No Greater Love》もジャマルらしい。

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