見出し画像

二人の監督:星野仙一と野村克也

もうすぐ始まるWBCで日本代表チームの監督を務めるのは栗山監督です。その前任者で東京オリンピックで日本代表チームを優勝に導いたのは稲葉監督でした。個人的には監督就任の順番が逆では?と思ってしまいました。阪神タイガースの監督の座を野村克也から星野仙一が引き継いだ時も同じ思いでした。

2003年11月7日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================

正反対の二人だ。

しかし阪神タイガース再建には、この両極端な二人が必要だったのだろう。

選手たちを弟分のように扱い、厳しく育てる親分肌の星野と選手たちを大人として、社会人として、プロとしての自覚を求め、指導する野村。

二人の年齢とは逆に、若い星野の方が “古風な雷おやじ” タイプの監督に見え、年長の野村の方が逆に “今風で近代的” な監督のようにも思える。

この二人の施した阪神タイガース強化策からは、二人の正反対とも言える方法論を見ることが出来る。

* * * * *

阪神タイガースの強化には大型補強が必要だと判断した星野は球団側に多額の資金を用意させ、直接本人が誠意を持って口説き落とすかのように片岡篤史や伊良部秀輝、金本知憲など実力のあるベテラン選手たちを次々と獲得した。またその反面、徹底的な人員整理を行い、組織をリフレッシュさせた。それは監督業務だけにとどまらない、チーム運営にも関わるゼネラル・マネージャー的な動きともいえる。悪く言えば昭和の "ワンマン社長" 的な動きをするのが星野だ。

強権的なポジションを得ることで、選手だけではなくフロントも巻き込みながら、札束攻勢による金権的・資本主義的とも言える強引な選手獲得を行うことでチームを強化する。そして現場では恫喝的な態度で選手に接することも厭わない星野の方が、ある意味ではいささか独裁的で古風な監督のように見える。

野村は大型補強には淡泊だった。4番、エースの補強の必要性を説いても、自らその獲得に向けて、積極的に動くということは無かった。野村は現場での野球指導を行うだけの、職人的気質の監督のように見える。また現有勢力を有効活用し、再生させるのも野村の真骨頂だ。そして獲得する選手も赤星憲広や藤本博史のように、地味ではあるが、特徴のある、相手に回せば嫌なタイプの選手が多い。派手さや話題性は無いが、野球博士(?)としての目にかなうセンスの持ち主を好んで選ぶ。

野村のスタンスは ”野球職人的”とも言えるかもしれない。しかし一見古風で地味な外見とは裏腹に、頭を使ったID野球を掲げて現場での人材教育や育成に長け、組織の各部署の役割とその業務を尊重しながら地味なチーム強化を図る野村の方が今日的なマネイジメント、組織論を理解、体現している今風の合理的な監督のように思える。

* * * * *

この二人の違いは野球人として最初に世話になった監督からの影響、そしてその監督に対する評価によるものかもしれない。

星野が明治大学のエースとして活躍していた頃、薫陶を受けたのが応援団出身・野球未経験の島岡吉郎監督だ。鉄拳制裁と精神野球。星野が親父のような存在であった島岡から受けた影響は無視できず、それが血肉化したのだろう。

野村が南海ホークスにテスト生として入団した時、ホークスを仕切っていたのは鶴岡親分と慕われていた鶴岡一人監督。選手の発掘や育成にも手腕を発揮したが、鶴岡の精神野球に野村は嫌気がさし、考える野球を模索、指向したのだろう。

また当たり前ではあるが、星野はピッチャー、野村はキャッチャーとして選手人生を終えた。このポジションの違いから派生する野球観の違いも見逃せない。

何はともあれ、このタイプの異なる二人の監督がいなければ阪神タイガースに18年ぶりの優勝は訪れなかっただろう。

優勝と言う宴の後には

だが、この二人の監督就任順には疑問が残る。

本来なら最初に星野がダメ虎たちに勝つための意志を植え付け、勝つことの意義や喜びを認識させる作業が必要だったのではないだろうか?

星野の育てた、ある意味では “高校球児” 的な選手たちに、野村がプロとしての知能、言い換えればプロとしての嫌らしさ(?)を教え込むのが本来の流れのような気がする。基礎工事の後に緻密な野球理論を植え付けてこそ長期間にわたる強いチームが作れるのではないだろうか?

確かに星野は中日ドラゴンズを2度優勝に導いた。しかしそれは2回の監督就任によるもので、一度の監督就任期間中に2度優勝したのではない。つまり短期間での優勝は出来るが、裏を返せば長期間強いチームは作れなかったとも言える。

星野は即効薬なのかもしれない。

野村は徹底した人材育成と野球理論の刷り込みにより、常に優勝を狙えるチームを作り上げた。1978年の初優勝時の勢いが消え、その後の80年代は低迷していたヤクルト・スワローズを見事に変身させ、90年代を代表する実力派チームにまで育て上げた実績がそれを見事に証明している。

野村は漢方薬なのかもしれない。

* * * * *

後に東北楽天ゴールデンイーグルスは野村監督と星野監督の間にブラウン監督を挟むというマイナーチェンジを行いながら、球団創設9年目に星野監督下で初のパ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝を達成した。これは阪神タイガースが行った野村監督ー星野監督による効果的な監督交代リレーにヒントを得たものだろうか?

確かにこの方法で阪神タイガースも東北楽天ゴールデンイーグルスも一応の結果を出した。しかし長期的な球団強化という点では、やはり野村ー星野ではなく、星野ー野村の監督交代リレーが効果的なのではないだろうかと今でも思う。

しかし野村は星野の後釜に座ることを絶対に良しとはしなかっただろう・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?